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ミツメカク 第1回活動記


こんにちは、リョウです!
前回の投稿から時間が空いてしまいましたが、今回から第1、2回の訪問をまとめたいなと思います。

第1回はリョウの視点から見た第一回は9月21日〜24日。

9月21日

 我々二人はこの日は朝の9時くらいに、函館を出発した。手段はその時はヒッチハイクで、函館から八雲、そして長万部と二人の方に乗せてもらいたどり着く。長万部が近くなるとぽつりぽつりとその特徴的な様相があらわになる。乱立するドライブインの廃墟、カニがこの土地の特産だというが、そのことを誇示する巨大な模型。それがかつて日本が「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代に作られたであろうことが予測される。

長万部

 駅に着く。長万部にて初めてりかさんとお会いし、地元民から愛される大衆食堂、「そばの合田」にてそばを食べた。アオイ、リョウともにもりそば……だったはず。りかさんも確かそのはず。

アオイは次のように店に入って感じたと言う。「田舎特有なのかもしれないが、暖かった。」かくいう私も、見ず知らずの人間である私に当たり前のようにこの店のおすすめを教えてくれたおばちゃんには驚いた。嬉しかった。

「この土地においての余所者とはどのようなあり方なのか。」

その思いが私の中では付き纏うようになった。

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 その次にりかさんが今リノベーションしている旧加藤書店に向かう。一階が店舗部分、二階に居住スペースがありどちらも今リノベーションをしており、工具や材料を色々とみることが出来る。
りかさんは「この旧加藤書店を『みんなのやりたいことを叶える場所』にしたい。」と言った。
そう聞きながら私たち二入は旧加藤書店を眺めていた。

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 次に私たちは長万部の駅前商店街を巡った。
いくつもの店をめぐった。とにかく長万部とその街にいる人間を知りたかった。その日はどの店がどの店なのかをよく分かりもしないで巡っていった。いくつもの話を聞いたが、印象的だったのは国鉄の話だ。

この街は鉄道で栄えて、鉄道で滅びたんだ。

どなたの話だったかはもう忘れてしまった。

だがそののちにもこの話はいろんな人から聞かせてもらった。

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 そして長万部のお店の特徴として老舗が多いことだった。どこも80年や100年近くも創業から経過している。きっとここですでに各々がどのようにあるのかと言う棲み分けがあるのだろう。しかしながらこの街にも新しいお店もあった。どちらもカレー屋さん。だけれども経緯を知ればこの町の古くからある、そしてあったお店の系譜にあることがわかった。

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写万岳、街の暮らし

 りかさんに写万岳に連れていってもらった。

この町のことはよくわからない。
何がこの町のシンボルなのか、色は何か。
ずっとぼやけたままだ。
だがこのままわからないままでは何を書けばいいか決まらないだろうに。
本当にこの街には何かあるのだろうか。


そんなことを思って車に揺られる。長万部は大きくエリアに分けて沿岸部と山間部に分けられる。その境界線ははっきりとしており、役所や商店など主要な場所の集まりによってもよく可視化されている。
しかしながらもう一方の山間部は初めて見ることになった。基本的に稲作や畑作には向かず、酪農が多くの場所で営まれている。写万岳の向かう途中はまさしくその景色だった。極めて鮮明で、けれども霧が漂う少々寒いような草原に、多くの牛が孤立と群れの中間状態で佇み、草を神経質に口に運んでいた。

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麓に到着した。

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ここからは下の沿岸部と海が小さいながらも一望できた。私はその時に何がこの街にあるのかということに一つの予感を抱いた。この街に何があるのかは明瞭にはならぬが、暮らしは間違いなく存在すると言うことだった。何を当たり前なことを、と思うかも知れない。しかしながら私はそのことに実感を持てずにいたのだ(とはいえ、来てから数時間しか経っていないということ思えば、早い方だ)。

りかさんは工事が進んでいる山を指差しこう言う。「あの山は新幹線の工事に含まれているんです。」

ハゲ山ではないが人の手が明らかに分かるように入っている。ここに別荘でもあればきっと星もよく見えるだろう。下にもどる。下界に下るという表現をしたくなるのだが、きっとそれは不適切だ。

もうじき日も暮れる。もっと寒くなる。写万岳に行けたのはよかった。そこから2ヶ月経った今それを振り返るとよく思う。

何がこの土地で起こっているのか、その暮らしとは何なのか。またこの土地に生きる人間とはそのように生きているのか、どのように存在しているのか。

そういう根本的なものを見なくてはならないという思いができたから。

温泉街とそこに続く橋 

その日は温泉に入った。りかさんがリノベーションしている370(みんなのおうち)にはまだシャワーユニットがついていないためだが、そのおかげで長万部の温泉に数日間、通いつめることができた。


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りかさんの車で温泉街まで送ってもらった。長万部には温泉があり、それは古くから湯治場として有名だったらしい(これは余談だがかつては大きな象が少しハズレにある温泉に湯治をしに来たらしい、ある年代以上の方に話を聞くと決まって言う)

長万部温泉は長い線路の中にある長万部駅を挟み、山間部に位置するため、長くて、そして小さな橋を渡って行かなくてはならない。この日は歩きはしなかったが、明日以降は毎日ここを通ることになる。


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 この初日に向かったのは東長万部温泉はかなり熱い湯だ。しかしながらそのお湯は体の中心まで貫き、湯冷めすることを知らない。来る時のような厚木では暑くて仕方なかったので大幅に服を脱いだ。帰りは先程述べた長い線路上の橋を渡ったがすっかり暗くなり、もう秋であることを悟った。

反省会

その夜は帰ってからアオイと今日の振り返りをした。その中で出てきたのはやはりこの土地の色だった。

「どんな色なのかはっきりしない」「それは元々ないからなのか、それとも出そうと思っている人間がいないからなのか。」
「でもないわけではないだろうに、山に登った時に俺は『暮らし』らしきものは感じた。きっとその選択肢の中では後者ではないか?」

このように話が進み、明日の予定を立てた。明日は今日何気なく行ったお店や場所にちゃんと話を聞きに行こう。この制作は描きたいものをただ描いてもあんまり意味がないから、だから話を聞きに行こう。

22日

 朝から曇り空。大体朝8時半くらいに起きた気がする。アオイも起きており、昨日の予定通りに動いていく。予定は以下のよう。その中からいくつかピックアップしたい。

1:サカシタ
2:茶屋
3:アカツカ
4:川瀬チーズ工房
5:静狩駅
6:海岸
7:ヤマヤ
8:ワイン型漁港
9:駅で高校生
10:お好み焼き

 サカシタさんはこの町の商店街にある花屋さんだ。創業は100年近くにもなり、老舗中の老舗である。どんな話を聞いたのかは申し訳ないがもう明晰ではない。言い訳がましいがこの日は本当に多くの人間と話したのだ(それこそ目が回るくらいにね)。しかしながらそれこそここの街に映画館があったという話、いいことを聞いた。

 お茶屋さんもこの街でもう長いことやっているらしい。私たちが壁画を描くという話をしたらこの街で昔催されていた絵画教室の話をしてくれた。後から分かったのだが、もしかしたら、その先生は戸次正義(べっき まさよし)という画家であるかもしれない。この方は函館美術館に作品が収容されており元は中学校の美術の先生だとか、そうじゃないだとか(もしかしたら他の人と勘違いをしている可能性がある)。そして写真クラブの話、山岳クラブの話、いろんな話を聞かせてもらえたがこれらの話はこの人のところ以外ではあまり聞くことがなく、唯一、後日役場に行った時に話を聞いた役場職員、中村絵美さんに話を聞いただけだ。とにかくそのような足跡を見ることができたのは幸いであった。この街にも物を作る文脈があった。この辺りで雨が降ってきた。土砂降りとは言わないが、かなり激しい雨。

※実は初日にこの町の魚屋さんを訪れた。りかさんでも知らなかったらしい。魚以外のもの扱っている。お父さんもお母さんもどちらも明るい方で、どんな具合に店を営んでいるのかを教えてくれた。そこをまた訪れたときに傘を貸してもらった。緑と赤のどちらもかわいい傘だった。

 アカツカさん。この町の総合商社と言われている。この時代において珍しく家族経営で会社を回しているらしく、本当に顔が広い。請け負っているのは印刷、ペイント、イベント企画と多岐にわたる。ここに話を聞きに行けばいろんなことが分かるかもしれないと思って行ったが本当にいろんなことがわかった。興味深いことに「鉄道で栄え、鉄道で滅ぶ」ということを言っていた。アオイも言っていたが今でも頭によぎる言葉だ。あとでこの後の記事で記述することにもなるが本当にお世話になったし、これからもお世話になるだろう。

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静狩、金山と海岸

一通りこの街を闊歩した後にりかさんが隣の地区の静狩に案内してくれた。この地区は古くは静狩金山において多くの人で賑わい、そののちにはホタテの養殖で成功した地区だそう。しかしながら時代の波に揉まれ、今では地区に一つの小学校も来年閉校してしまうという。りかさんはその地区の木造の駅舎に連れて行ってくれた。線路を渡って反対側に行くその仕組み。「線路」。安易かもしれないがこの長万部の人にとっての線路とは何か。国鉄?金山?ホタテ?カニ?その中でどのように暮らしているのだろうか。

 そしてしばらくそのことを考えたのちに次に動く。静狩海岸。この海岸はが普段、清掃活動行っている場所だ。地形の影響かゴミが流れ着きやすいらしい。

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そのことは海岸の情景を見れば実感した。ゴミが流れ着く。しかしながらその流れ着くゴミはプラスチックや漁具として使われるウキや網であった。どれも身近な存在だ。我関せずとしてそこに居直ることはどんな人間にも難しいだろう。ある時期になると流木も一面に流れ着く。循環という言葉は一見美しい言葉のように聞こえる。しかしながら実際に循環するものの多くは都合の悪いもの、醜いものだ。そこを美化するのではなく、淡々と向き合うことがこの局面では必要だろう。この静狩海岸はこの長万部の中でも海水浴やサーフィンなどのスポットであるという。

 りかさんによって長万部のアーケード街以外を案内してもらった。そのあとアオイと夕飯にお好み焼きを食べに行った。コロナ禍で飲食店が休業していることも少なくないこの状態でこのお好み屋さんは時短で続けていた。だからかいろんな人がいるように思えた。テレビを見て酒を飲むおっちゃん達。家族連れ。この街に集まる場所ということは食事をする場所でもあるのだろう。

この日の終わりにアオイとこんなことを話した。

「昔の話をされることが多かった。」
「今日話した人たちはどこに生きているのだろうか、過去?今?未来?」
「過去かもしれない」
「鉄道で栄え、鉄道で滅ぶっていうことが印象的だった」
「線路の上をこの町の人は歩いていたのだろうか。でも今はその轍を見ているの?」

23日

 この日も朝から雨が降ったり止んだり。午前中は隣町の八雲町でのイベントにりかさんに連れて行ってもらい参加した。その詳細についてはここでは割愛する。

ありし日の長万部を求めて

午後からはまた長万部に戻り観光案内所に行く。実は前日まで聞いていた話の中に温泉街や映画館などを書いたポストカードなどがあるという情報があった。今ではもうなくなってしまっていると思うが、観光案内所にならあるのではないかということを聞いたのだ。そのポストカードを求めて私たちは向かった。しかしながら売り切れてしまっている上、数年前のものであるからポスターにしたものしかないという。それでも無理を言って見せてもらった。

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明るい色調の水彩画、在りし日の温泉街。それは賑やかな様子だった。今より店先は繁盛しており、暖簾などが一直線に並んでいた。
絵であったとはいえ、そこにノスタルジーを感じる人間ももしかしたら多いのではないかと思えたほど。その後に長万部の町史を見せてもらった。多くのビジュアルがあったためイメージしやすい作りで、特にその国鉄時代の隆盛をありありと見ることができた。「この町と、そこに住む人間はどのようにここにいた、そして今ここにいるのだろうか」個人的にものすごく気になった。理由というよりもその存在論的な意味。

「ここにいちまった」という言葉

アオイは一度370に戻り作業を進めるという。私は土砂降りの中、前に一度伺ったこの町の老舗の煎餅屋さんのところへ行った。煎餅作りを見せてもらう予定だったのだ。店の奥では若いパートと思われる女の人と、お母さんと思われる二人が甘いあめ煎餅を作っていた。とてもいい匂いだ。金属製の巨大で無骨な機械を使い、一つ一つ整形していく。その様子をじっと見ているとお父さんが出てきた。お父さんはこの街に商売をするために移住してきたらしい。お父さん曰くその当時は商売をするのならば長万部であったという。そこで煎餅屋の3代目となり、今に至る。この町は移住者が多いらしい。そこで私は

「なぜこの街にいるんですか?」

という質問をした。それに対しての答えをよく私は覚えている。

「いい町とは言えない。」
「ここに居ちまったんだ。」

それはもうここに生活をしているということが足枷になっているというようにも私には聞くことができた。
この町と繋がっているという思いもないらしい。

いちまった

アオイにとって鉄道の話が印象に残ったのと同じように、この言葉が私の中で幾度となく音となり、文字イメージとなり抑揚となっては消えた。同じように写万岳の風景が頭によぎり消えた。私の中では今回の壁画のテーマは

「この長万部という土地に、人はどのように在るのか。」

ということに決まった。帰りに買ったあめ煎餅を食べながら370にてこの話をアオイとした。

24日

 この日は午前中に旧かとう書店の店主、加藤さんにご挨拶に向かった。加藤さんは奥さんとともに出迎えてくれた。
制作の意図を伝え、取材のためにお話を聞こうとした時に、加藤さんが自身の自伝の話をしてくれた。

私たちは猛烈にそれに興味を持ち、頼み込んで借りた。大体200頁を超えるほどの分量であった。また奥さんは自身が静狩金山の時代に、その場所で生まれたという。昔は映画館もあったし、一つの街だった。汽車に乗った人が当時の函館と勘違いをして降りてきたほどだという。でもそれは本当なのだろう。戦前の時代においての鉱山、特に金山であれば確かにそうなのだろう。もっと話を聞きたいと思いつつ、流石にこれ以上はご挨拶だけで言っていたのにも関わらず…とも思い、ひとまず明日の同じくらいの時間に返却する旨を伝えその場を後にした。

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その後アオイ次のように言った。

「旧加藤書店に描くのであれば長万部のこともそうだが、書店そのものの文脈にも注目したい。」

その通りだと思う。

 その日の昼食は近くの大衆食堂で食べた。チキンカレー大盛りが600円とは……価格も量も、もちろん味も大満足でした。

この町の歴史 

午後は少しだけお昼寝をしてそののちに役場職員である中村絵美さんにこの町の文化と歴史についてお話を伺いに行った。結果から述べるのであれば大変に勉強になった。この町の入植の歴史から、文筆家たちによる言及、近年になってからの文化活動の経緯。資料館の成り立ち。またここで初めて戸次正義の名を聞くことのなる。この土地でいかなる表現活動があったのか。そしてどのようなコミュニティがあったのか。それを知らずして私たちは長万部の根幹をテーマに何を描けようか。

鮮やかな夕日にて

この日はずっと晴れていた。だがもう5時を回った。夕暮れと夕闇の境目の中で鮮やかな朱色が美しい。温泉街に続くその橋はこれまでずっと曇りや雨の中渡ってきたが初めての光景だった。

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新幹線の駅がこの長万部にできる。ここの土地に住む人間の暮らしを見ようと決意したのはいいが、その暮らし自体も刻一刻と変わっていくものなのだと身にしみた。本当に私たちはこの街で絵を描くだけで良いのだろうか、それが本当にその絵にとって意義のあるものなのだろうか。これまでこんなことを思っていた。しかしながらなんとか見つめて写しとらなくてはならないのだろう。橋を歩きながら私こんなことを思っていた。

終わりに

 ここでは書ききれなかったがこの私、リョウの文字の裏ではさまざまな人間が様々な対話が繰り返されてきた。

改めて我々に関わっていただいた全ての方に感謝を申し上げたいです。

これからもお世話になることもあると思いますがその時はよろしくお願い致します!!

また毎夜、いかにして描いていくべきかという議論が繰り返されてきた。その一つの形が今回のプロジェクト「ミツメカク」です。その山積から生まれる表現にこれを読んでいる方々はこれからも注目していただきたいです!

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ヤマハナリョウ

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