毛沢東の「二分法」
今回は、YouTubeのチャンネルでいただいた「毛沢東の二分法について書かれているお勧めの本はあるでしょうか」という質問への答えです。
まず、なかなか簡潔にまとまった著書というのが、私の力では見つけることができませんでした。
ただ、「二分法」に関心があるのであれば、まずは『毛沢東語録』に目を通すことが、毛沢東や中国の対日方針を理解するうえでの基本になるのではないかと思います。
また、毛沢東の考え方については2015年の佐藤優さんの記事が、端的にまとめているのでわかりやすいです。
また、「毛沢東の二分法」の由来を具体的に分析したものとして、中国人研究者・趙新利さんの早稲田大学から出された博士論文は、まず目を通しておく必要があります。
*日中戦争期における中国共産党の対日プロパガンダ戦術・戦略 : 日本兵捕虜対応に見る「2分法」の意味 博士学位論文(リンク)
この博士論文は、中国古典の敵軍と一般民衆を区別する思想に、「二分法」の根源を求めています。
そのうえで、日中戦争を通じて展開された日本人捕虜・日本国内の反戦団体を利用した具体的な中国共産党の戦略・戦術を検証しています。
さて、ここからは、あくまでも本チャンネルの意見です。
敵対する為政者と民を区分して、敵の民を取り込む「二分法」が、中国の古典に見えるのはたしかです。
ただ、上の博士論文なんかは触れていませんが、 実際には、むしろ逆に、北方遊牧系の少数民族が、中国を支配するための戦略として利用してきた側面もあります。
たとえば、少数の満州族(清)は、あきらかにこの「二分法」的な戦略で中国統治に成功しています。
明を滅ぼした清ですが、じつは厳密な意味で明を滅ぼしたわけではありません。
明を直接滅ぼしたのは、李自成の乱です。
この乱によって、明の北方防衛の要である「山海関」の守将であった呉三桂が、李自成の討伐と引き換えに清を中国内に引き入れることになりました。
中国に入った清は、その後、李自成の乱の中で命を落とした明の最後の皇帝(崇禎帝)の陵墓を整備したり、李自成を討伐したことで、比較的スムーズに明に替わる中国の支配者として君臨することになります。
これはあくまでも私の意見だが、こうした歴代の征服王朝の手法(とくにモンゴル・元や清に代表される)も毛沢東に影響しているのではないかなと思うことがあります。