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理想的なしあわせと現実的なしあわせ

最近、面白いほどにマッチングナンバーを見るミツキユイです。
私、時刻のマッチングナンバーを見るとケータイを出してスクショを取るのですが、最近これがどんどん増えてきてるんです。
17日には、「16:16」「17:17」「18:18」「19:19」となぜか61分ごとに時間を気にしてました。
(ちなみにこの日は「22:55」「23:23」も見てました)
今日は、これを書き始めたタイミングで「10:10」を見ました。
マッチングナンバーをよく見るのは、何かいいことが起こる兆しとも、守護天使が近くにいてくれているサインともいうようです。
いいことが起こってくれるといいなぁ。

2つの考え

私には大切にしている考えがあります。
それが「何事もたのしく」ということ。

私たちは「夢」や「希望」を考えるときに、ついつい「未来」を見てしまいます。
小さいころに「将来の夢は何?」「大きくなったら何になりたい?」と聞かれ続けて生きてきているし、「大人になって夢が叶うまで(主に勉強を)頑張ろうね」の発想で育てられてきているから、仕方のないことなのかもしれません。
確かに、未来に向かって「勉強すること」や「努力すること」は大切な要素なのかもしれません。

しかし、私はあまりそうは思わないのです。
あるかわからない未来に向かって苦しい経験をし続けることが、果たしてしあわせなのか。
報われるかわからない将来を目指して暗示をかけて自分に鞭打つことが、果たしてしあわせなのか。

もちろん、その理想は尊いです。気高いです。美しいです。
けれど、尊く気高く美しいその理想は「続けていける」のですか。
はっきり言いましょう。私には無理です。
なので、私は「何事もたのしく」を求めるのです。
無理に強いられる「勉強」よりもやってみたいと感じる「好奇心」を。
がむしゃらに頑張る「努力」よりも成長を楽しめる「達成」を。
あるかわからない「未来」よりも今ここにある「現在」を大切にしたい。
一生懸命勉強して努力して未来をつかみ取る発想から、好奇心に従って目の前にあることを達成していくことを楽しむ発想に変えていくほうが、人生はより楽しいのではなかろうか。
私はそう感じるのです。
しかし、勉強や努力、未来への展望がなくてもいいというわけではありません。
「楽しいことに取り組む」だけではなく、「楽しくないことを楽しく変えていく」ことも大切だからです。

しかし、最近になってこの考え方だけではうまくいかないこともわかってきました。
「たのしさ」を追い求めるのは、ステキなことです。
生産的で享楽的で刹那的。ステキな響きです。
しかし、ここには欠点があります。
燃え尽きるのです。
楽しいときには「体力の限界」や「気力の限界」といったものは意識されません。
けれど、「楽しい」は、感情の中でも情緒という区分に含まれます。
情緒は一時的に強い感情をもたらしますが、すぐにスッと引いてしまいます。
なので、楽しく「あり続ける」ためには、延々と楽しくなるためのモトを供給し続けなけれななりません。
……そりゃ、限界が来ますわよ。

なので、新たに考えを足しました。
「何事も心地よく」
心地よいというのは、感情の中でも気分という区分に含まれます。
気分はとても穏やかな感情ですが、長く続きます。
「この瞬間は心地よかった」という感じではなく、「今日は心地よい感じ」といった長さがあります。
「楽しい」というハイボルテージの状態をずっと続けていると消耗してしまうので、まずベースを「心地よい」に設定する。
そうすることで「ふしあわせ」に陥らないようにすることも、しあわせであるためには大切なことなのだと感じたのです。

理想と現実

その2つの考えをベースにしながら、「しあわせ」にはひとつの軸があるのではないかと考えました。

それが「理想的なしあわせ」「現実的なしあわせ」
自分の生活でたとえてみます。
私の理想の朝活は、朝早く起きて、朝食を作って食べて、身支度を整えて近所の公園や街並みをぐるりを散歩しながら、仕事に行くことです。
ときにはカフェでモーニングをとったりするのもいいですね。
では、実際の私のモーニングルーティーンはというと、朝早く起きて、時計を見て二度寝をし、買ってきたパンとジュースを飲んで(少し余裕があればコーヒーを淹れる)、ひとまず着替えて、自転車に飛び乗ってえいしょえいしょと漕ぎながら仕事に向かっています。
ときには近くのファミレスでモーニングをとったり、牛丼屋さんに駆け込んだりもします。
……二度寝をしてしまう時点で、理想的な活動になる気配はありません。
けれど、今のモーニングルーティーンでも、しあわせはしあわせです。
前者が「理想的なしあわせ」、後者が「現実的なしあわせ」。
しかし、この2つが全く別物かというと、そういうわけではありません。
すこしづつですが、現実は理想に変化しています。
括弧付で書いたコーヒーが、そうです。
「朝優雅にコーヒーを淹れる生活」は少し前の私にとっては理想でした。
しかし、思い立って少しお高いコーヒーメーカーを買い、それが現実にできるようになりました。

私の「この瞬間のしあわせ」を考えてみましょう。
おいしいコーヒーが飲める、思いついたことをサクサクnoteに書ける、130インチの大画面でゲームができる、いつでも食欲を満たせる……など。
これは「即時的に満足できるしあわせ」です。
実際、そのために私もお金を使ってきました。
コーヒーメーカー、ゲーミングPC、プロジェクター、コンビニに近い家、などがそうです。
(書き出しながら、なかなかな額を投資しているな……と気づきました)
しかし、このしあわせも一朝一夕に手に入ったわけではありません。
一人暮らしも、プロジェクターがある暮らしも、高校生くらいからの夢でした。
10年以上は心の中に持ち続けて叶えた夢です。
過去の自分からすれば、遥か彼方の夢でした。
かつては「理想的なしあわせ」だったものが、いまでは「現実的なしあわせ」に変わっています。

理想を現実に、長期的展望をいまに引きずり込む

「夢を叶える」というのは、「今の自分を捨ててなりたい理想の人間に変化していくことだ」と私は考えていました。
ですが、実際にはそうではなかったんだ……と思っています。
イメージ的には「理想の自分の要素を現実に作り出す」感じ。
朝コーヒーを楽しめるようになるためには、「朝コーヒーを楽しめる自分になる」のではなくて「朝コーヒーを楽しめるようにいまを改造する」わけです。
具体的にはコーヒーメーカーを買ったり、コーヒー豆を近くにおいてその香りで目覚めたり。
理想に向かっているのではなくて、理想の要素の一部分を現実に引っ張りこんでくる。
ほかのものもそうです。
「これがあったらいいな」と思うものや「ここに行けたらいいな」と思う場所に、まずつながってみる。
もちろん、いきなりどっぷりつかるにはかなり勇気がいるし疲れる。
だから「体験だけする」。
レンタルできるものはレンタルしてみてもいいし、想像で楽しめるものは想像だけでもいい。
常連になるまで行けない場合は一回だけ行ってみてもいいし、興味があるならホームページ見るだけでもいい。
「いつかできればいいな」と思っていることはすぐにはできないけれど、先取りのつもりでちょっとだけいまの瞬間に持ってくる。
実はこうするほうが「現実的」なのではないか、と思います。

おわりに

今回は、いつも以上に勢いで書いているので、非常に読みにくいかもしれません。
公開後に少しずつ手直しするかもしれません。
いつも以上に乱文失礼しました。
では、また。

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