「写真を撮りに行く」とは、無意識に目を向けること
最近、カメラにハマっている。朝の散歩のときには、一眼レフを持って歩くのが新しい日課となりつつある。
福井県にお住まいのフリーライター、梅澤さん(@ume_1984)さんに以前使っていたカメラをお安くお譲りいただいたことがきっかけだ。少々古いモデルとは言っていたが、やはりさすがは一眼レフ。スマホで撮る写真とは全然違う。
(梅澤さんに譲っていただいた「Canon D60」)
一眼レフを持って一歩外に出ると、目に写るさまざまなものに興味が向いてくる。
「あのお花をこう切り取ったら、いい写真になるかな?」
「修学旅行の中学生たち、楽しそうだな」
「あ、スズメかわいいな!」
神社に住んでいる猫ちゃんたちや、鴨川を泳ぐカモ、空を翔けるツバメ。そんな身の回りのものを見るのが、いつもより楽しくなる。
カメラで切り取った風景は見慣れた近所の一部なはずなのに、初めて見たような輝きを見せてくれる。
でもこれって、カメラで切り取ったから美しいのかな? ほんとうは、いま写真をみて「美しい」「いい写真だな」と感じたどの風景も、毎日のように目にしていたはずのものだ。
ほんとうは目に写っていたはずのに、意識を向けていなかった風景だ。
道端の名前も知らない花も、よく見てみるととても美しい。
「写真を撮りに行く」というのは、身の回りにあるものへの興味を取り戻そうという行為なのだと気づく。見慣れてしまい、気づかなくなってしまった美しさを再発見することなのだ、と思う。
つまり、最近のぼくにとって、写真を撮りに行くことは「自分の無意識に目を向け、感性を取り戻す」行為になっているのだと思う。
ある意味でこれは、毎朝ぼくが伏見稲荷に一礼しに行くのと似ているような気がする。特に信心深いわけでもないぼくが神社へ通うのは、1日のはじめに「心をリセットして、背筋を伸ばす」ためだ。これも、なんとなく昨日を引きずった自分に意識を向ける行為なのだと思う。
どんなことでも、「無意識」って結構こわいよね、と思ったりする。特に、人との関わりが少ない在宅での仕事が続くと、自分の中で無意識な偏りが生まれていることがある。
自分の無意識に目を向ける機会、作ってみてはいかがでしょうか?
思っていたより近所の風景が美しかったことに気が付くかも知れませんよ。
― 2021.07.02. 充紀