ただただ、祈る。
近所にネパール人の方がやっているカレー屋さんがある。店の前を通ると、つい気になってしまうお店だ。店前の手書き看板がいつも、とても素敵だからだ。
お世辞にも綺麗とは言い難い字だし、日本語もたどたどしい。でもそれもどこか愛嬌があり、素朴な言い回しにいつも癒しを貰っている。
1週間ほど前だろうか、先日お店の前を通ったときはこのように書かれていた。
一番下に、小さく書かれた「いっしょにがんばろー」の文字に元気を貰った。
僕が住むこの街は、まさに伏見稲荷大社のすぐ近く。多くの飲食店は伏見稲荷の観光客によって支えられてきたはずだ。一番大変なのは、まさしく彼らだろう。本当に、いやになっても仕方ないと思う......。
「いっしょにがんばろー」
1番大変なはずなのに。この一言で、こちらが逆に元気を貰ってしまった。一緒に頑張ろう。
* * * * * * * *
今日は京都の街に久し振りの雨が振った。雨の中、傘を差し散歩した。普段は伏見稲荷方面を歩くことが多いのだが、今日はなんとなく、鴨川の方を歩いた。
鴨川の方を歩くと、帰りに例のネパール料理店の前を通ることになる。やはり今日も、手書き看板の文字を気にしてしまう。
「今はどうがんばれば良いのかもわからなくなりましたね?」
何かとてつもなく、ショックを受けた。綺麗事ではどうしようもない現実が、目の前にのしかかってきたみたいだ。つい先日書いた記事の中で、僕は次のように書いている。
"どうせ使うなら、地域のお店にお金を回そう"
"僕がたまにご飯食べに行ったり、ちょっと花を買ったりするくらいで経済的に何かが変わるとは思っていない。でも、「美味しかったです。また来ます!」の一言が、何か少しくらいは意味を持ってくれたらなと思い、今日も天丼を食べてきた。"
"飲食業界や宿泊業界は本当にいま苦しいはずだ。そんな中だというのに、Webライターの僕は大して影響を受けずに仕事させてもらっていて、稼がせてもらっている。であれば、今稼いでいる人がお金を、そして気持ちを回さなくてどうするのだろうか。"
―どうせ使うなら、地域のお店にお金を回そう(2021.01.19.)
記事の中でも書いた通り、自分でも経済的に何かが変わるとは思っていない。つまりは、現実的に何か変えられる力など持っていないことはわかっていた。
でも、認識が甘かった。どれだけ綺麗事を言ったところで、まさに自分で言った通り「何かを変えられるわけじゃない」。
ゴールの見えない勝負。頑張り方すら分からない戦い
今回のコロナは、今生きている誰も経験したことがないパンデミックだ。いつまで頑張れば終わるのかも、一人ひとり何をすべきなのかも、誰も正解は持っていない。どこにも答えは書いてない。
経済を優先すれば、コロナが拡大するかも知れない。でも自粛を優先すれば、経済的にどうにもならなくなる人が増えてしまう。閉めてしまうお店もたくさん出るだろう。
ワクチンが完成してもそれで本当に抑えられるのか、完成したばかりのワクチンに副作用はないのか、それはまだ誰にも分からない。
あちらを立たせれば、こちらが立たない。最善の解決策が簡単に出るような話ではない。
正解がない中で、どうするべきなのか......?
そんな中で、自分はどうするべきなのか?
それに誰もが納得のいく答えを出せるほど、僕は優秀な人間ではない。残念ながら。しかし、それでも僕は、日々の生活を自分で選択して送らなければならない。
では、僕はどうしたいか......?
結局のところ、それでも僕は綺麗事を信じたいらしい。
何も変えられないとしても、誰かの「気持ち」にほんの少しでも、元気を与えられたらな、と思う。
今日もカレーを食べてきた。僕の他にお客さんは誰もいなかった。だけど、看板から察していた通りとても素敵なお店だった。とても美味しかった。
自分が感染しないように、ウイルスを持ち帰って誰かに広げてしまわないように、最善の注意はしないといけない。でも、それを徹底した上で、自分ができる小さな行動はやはり続けて行きたい。
そうは言っても、他の人もそうするべきだとは思わない。個々に、自分が思うことを信じて貰えればいいんだと思う。何せ、正解は誰にも分からないんだから。
僕は、自分の手の届く範囲で、届く分だけ、小さな綺麗事を続けようと思う。もしそれがどこかの誰かに届いて、何かのきっかけになったら嬉しいな、とだけ思う。
一日でも早く、この暗い情勢に光が差して欲しい。ただただ、そう祈る。
― 2021.01.23. 充紀