【意志あるところに道はある】ケイイチ ちゃり旅20年の道のりVol.30 エベレスト挑戦の準備
1年のうち、エベレスト登山ができるのは春と秋だけ。
年に2回だけなのだ。
しかも、秋は難しいので、ほとんどの人は4月5月にネパール側から登る。
2005年春、ケイイチと同じ登山会社からエベレストに挑戦するのメンバーは17人いるらしい。
ベースキャンプでの集合になると言うことで、ケイイチは再び、行けるところまで自転車で移動することにした。
出発の前まで、カトマンズ近郊の山で、ザイルワークの訓練などをしながら過ごす。
1日1日、「エベレストに向かうんだ」と言う気持ちが、不安と焦りと共にケイイチの中で膨らんでいった。
「お前の人生だから、お前の好きなようにやれ」
「エベレストに挑戦する」と、実家に電話した時、父はそう言ってくれた。
ホームレス時代ですら、ケイイチのことを信じて自由にさせてくれた父親。
群馬の町工場を継いで、海外に出ることすらままならない人生を送りながら、家族を養ってくれていた。
エベレストに登ることが夢だった父親。
その夢に挑戦しようと言うケイイチの背中を力強く押してくれた。
出発前に、一つ忘れてはならないことがあった。
ビザの手続きだ。
ネパールにはエベレスト登山に訪れる人がたくさんいるので、そのためのビザがある。
高所登山ビザと呼ばれる、8000m以上の登山をする人に発行される特殊ビザを申請しておく。
ビジタービザが切れると切り替わるとのことだった。
2005年、3月18日、カトマンズを出発する。
登山用の空港のあるルクラまで移動するのだが、自転車を預ける必要があったので、その手前にあるジリという街まで自転車で行くことにした。
標高1800m。
盆地なので、ひたすら登った後にひたすら降りるという道のりだった。
3日目にジリに到着する。
ここから山道を登っていくことになる。
カトマンズでは標高6000m以下は登山ではなくトレッキングとされているので、トレッキングロードだ。
車輪の付いているものは通れない。
動物の足で登っていくしかない。
自転車を預けて、山道に踏み出した。
ルクラまで3日かけて歩く。
空気が澄んでいて、静かさにとても驚いた。
あるのは、風の音、川の音、鳥の声、そして自分の息遣いだけ。
人がいない。
人の手が入らない自然の世界。
夜は、転々と在る村々の中の、民家のようなロッジに泊まった。
いくつかの峠を越えてルクラに到着。
ベースキャンプに入り、一緒に挑戦する17人のメンバーと顔合わせをした。
17人は3つに分けられ、ケイイチのチームには4人のメンバーが配属されてた。
が、1人の男性が到着前に負傷し、現地入りできていなかった。
早くも1人の脱落者が出たことが、衝撃だった。
ベースキャンプに入る前に、すでに挑戦は始まっているのだ。
残る3人のメンバーは、アメリカから来たスティーブと、オーストリア から来たジョセフ、そしてケイイチだ。
スティーブは7大陸それぞれの最高峰を登るという、セブンサミットに挑戦していた。
ジョセフは、登山歴20年で、オーストリアの山はいくつも登頂しており、8000m級の山にも無酸素で登った経験があった。
エベレストは3回目の挑戦。
2人とも山に詳しく、意気込みもあり、とても頼りになる仲間だった。
ケイイチは、登頂記録としては、赤城山、1883m。
これまでにどこの山を登ってきたか?と聞かれると苦笑いをするしかなかった。
それでも、若さとやる気、自転車で移動し続けている体力と根性。
そして、「強い意志の力」。
十分すぎるほど揃っていた。
ベースキャンプで与えられるテントは1人一つ。
プライベートの時間も大切にされている。
それから、食堂となる少し大きめのテントがあった。
その側にキッチン用のテント。
キッチンで料理を作る担当は常駐しているようだった。
高所に行くと胃腸の活動が弱まるので、スープなどが人気だという。
しかし、食は体力の基本なので、登頂を成功させるためにもしっかり食べなくてはならない。
じゃがいものあげたものや、チャパティ、それから野菜など、ネパール風の料理が振る舞われた。
そして、ネパールでの高所登山を助けてくれるシェルパ達のテント。
「シェルパ」は元々は民族の名前だったが、登山を助ける人という意味になっている。
それから、ベースキャンプでは、日本人のチームに会った。
ホンダさんという方が作ったチームで、日本の食材や、日本と交信できる衛星電話を持ってきていて、何かとケイイチを助けてくれることになる。
何より、日本語で会話ができるというのが、ケイイチにとってとても良い気分転換になった。
準備は整った。
いよいよ世界最高峰への挑戦が始まる。