【意志あるところに道はある】ケイイチ ちゃり旅20年の道のりVol.35 キャンプ3からキャンプ4へ
ジョセフを見送り、風もない青い空を見上げた。
30分後にはどうなるかわからない空。
日本の気象情報を信じて、僅かな希望にかけてキャンプ2に残ったが、本当に頂上まで行くことができるのだろうか。
人間の力ではどうすることもできない。
祈るような気持ちになった。
実力があってもエベレストに登ることはできない。
全ては空が決めるのだ。
ヤキモキしながら、天候が落ち着くのを待った。
5月28日。
ザッザッと言う金属で雪の上を歩く音が聞こえて目が覚めた。
テントのジップを開けてみると、薄明かりの中を歩いている人がいる。
キャンプ3への移動が始まっていた。
ケイイチ達も、早朝に登山の準備をし、好天のうちにキャンプ3へ移動した。
真っ青な空に囲まれて、白い山が堂々として見えた。
風がない。
これなら、このままなら、明日、頂上まで行けるかも知れない。
世界最高峰の頂まで登る、正真正銘最後のチャンスだ。
5月29日、早朝5時半。
テントを叩く風の音は聞こえなかった。
外に出てみると、外気は恐ろしく冷たかったが、思った通りに雲はなかった。
空が透けるように青い。
そして、とても近い。
シェルパに聞くと、まだ登頂したグループはいないようだった。
遅れを取らないように、登山の準備をする。
初めてキャンプ4まで上がるのだ。
標高8000m。
気温は-20度。
風が吹けば体感気温は-40度にもなる。
酸素を吸いながら登っていくが、身体が寒さで強張ってしまう。
イエローバンドと呼ばれる、標高8000m辺りにある地層帯が見えた。
岩場になると、靴についているアイゼンが邪魔になってしまう。
岩にはアイゼンの爪が刺さらないのだ。
ロープを伝いながら、足の裏を岩に乗せるようにして登った。
キーンと音が聞こえそうなほどの無音の中、岩とアイゼンがぶつかる音がする。
自分の呼吸が聞こえる。
上を見上げればこれ以上ないほどの青い空。
そこには空しか存在しなかった。
前方で、いくつかの隊が列になっているのが見えた。
その列を通って、吉報が入ってきた。
「誰かが登頂した!」
2005年春の登頂者が出たのだ。
それは、山頂までのロープが貼られたことを意味する。
ケイイチが登頂できる確率が少しだけ上がった。
標高8000mの地点に雪のない、岩肌の見える広いスペースがあった。
キャンプ4に到着。
感動よりも何よりも、広がるゴミにガッカリした。
ガス用のホースや、食糧のゴミ、キャンプ道具のゴミ。
その場に似つかわしくない人工物のゴミが視線の至る所にあった。
そして、その視線の先にエベレスト最後の山頂部分が、三角錐のようにポッカリと顔を見せていた。
キャンプ4では、身体を休めるだけ。
夜には頂上に向けて出発することになる。
雪を溶かしてスープを作り、身体を温めた。
一息ついていると、向こう側から人影が降りてきた。
登頂した人たちだ。
過酷な登山の頂点に到達した人たちだ。
もう、天候に悩まされることのない人たちだ。
明日には自分も。
そう決意を固くして、テントに入り、横になった。
遮るもののない風は、台風のようにテントにぶつかってきていた。
山頂へのアタックに備えて身体を休めたかったが、風の音が気になって寝れない。
この風が止まなければ、アタックは断念しなくてはいけないかもしれないのだ。
一喜一憂を暗闇の中で繰り返す。
夜8時を過ぎても、風の音は止まなかった。
ヘッドライトをつけて、ゆっくりと身体を起こす。
突風が吹くのが音で分かった。
テントを出ると、空には分厚い雲が広がっていた。
もう待つしかない。
テントに戻り、身体を横たえる。
ケイイチの中には計り知れない焦りがあった。
ここまで来た。
後、少しで頂上なのに。
暗闇の中で風の音が収まるのをひたすら祈った。
9時を過ぎると、外が騒がしくなった。
隣で横になっていたシェルパが起き上がって「出発だ」と言い始めた。
外に出てみると、先ほどまで空を覆っていた雲は無くなっていた。
見たこともないほどの星が空の全てを埋めている。
宇宙にいるかと錯覚をするほどの満天の星。
こんなにもたくさんの星が存在したのか。
声を失っていると、シェルパに準備をするように促された。
いく時が来たんだ。
酸素マスク。
ダウンスーツ。
腰にロープを巻きつける。
アイゼンを装着。
手袋は2重に。
先に下山してしまったジョセフが貸してくれた手袋を上からはめた。
フードとゴーグルの間のほんの少しの隙間だけが外気に触れている。
日本人の隊のテントに顔を出して、出発しますと告げる。
風はまだ強いが、これから落ち着くと見越しているんだろう。
満天の星と雪が、これから向かう場所を黒く浮かび上がらせていた。
あの頂点に向かって、ついに出発する。