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【意志あるところに道はある】ケイイチ ちゃり旅20年の道のりVol.2 旅の始まりは新宿ホームレス生活②
3年ぶりに新宿の雑踏の中にひっそりと佇む。
持ち金は3年前に前橋に戻るために使った210円に合わせようと思っていたが、結局160円になった。
多いとズルになってしまうが、少ない分にはいいだろうと思うところがケイイチだ。
ポケットの中のコインを握りしめる。
前回同様、歯ブラシも持ってきた。
だけど、今回はもう少しだけ持ち物があった。
行動を記録するためのノートパソコンとデジタルカメラ。
そして、パスポート。
ケイイチはインドに行くことを考えていた。
「インドに行けば価値観が変わる」
旅人の間でまことしやかにささやかれているこの言葉に、「人はなぜ働くのか」という疑問の答えがあるような気がしたのだ。
何より、前回のホームレス生活の経験により、お金がなくても社会から出るゴミをもらって生きていけることは実践できた。次の疑問は、「お金を稼がないで、やりたいことはどこまでできるのか?」だった。
とは言え、新宿のホームレス生活に戻ったケイイチがすることは二つだけだった。
寝る場所の確保。そして、食べるものの確保だ。
特に食べるもの確保はとても重要だった。
この頃を振り返ったケイイチは、「人生で最も飢えた時間」と「人生で最も人と口をきかない時間」を合わせて経験したと語る。
そんな生活の中でも友達と呼べるような関係もできた。
相手の素性を聞くようなことはしない。もちろん相手も聞いてこない。
「若いうちは何度でもやり直しがきくからな」と何度も言われたことが心に残った。
2ヶ月ほどのホームレス生活の後、ケイイチは後ろ髪を引かれながらも新宿から離れた。
鹿児島の友人の家までヒッチハイクでの移動を開始したのだ。
インドを目指して海外に出る。そのために、まずはフェリーで韓国に行くことを考えていた。
スケッチブックを手にヒッチハイクを繰り返し、本土最南端を目指す。たくさんの人に車に乗せてもらい、時には食事をご馳走になり、鹿児島に到着した。
久しぶりの友人との話のなかで、貨物船に乗せてもらって、韓国に渡ることを考えてることを伝えると、「そんなことはできるわけない。韓国はおろか沖縄にだって行けない」と言われた。
ケイイチの中の負けず嫌いが立ち上がった。
それならば、韓国にいく前に、沖縄に行ってやろうと思ったのだ。
まずは本土最南端の佐多岬を見にいく。その翌日、沖縄行きの貨物船に乗るために鹿児島港に行った。
移動はもちろんヒッチハイク。人の中々通らない場所でのヒッチハイクは大変だった。新宿からの道のりと、ヒッチハイクで乗せてくれた人たちの顔を思い浮かべた。
鹿児島港に着いて、乗せてくれそうな貨物船を探す。
乗組員のような人を見つけては声をかけるが、いい返事はもらえなかった。
フェリー乗り場でも「なんでもするので乗せて欲しい」と頼んだが、貨物乗り場にいくことを勧められるだけだった。
数日粘ったが、結局、どの貨物船も乗せてくれず、別の港に移動することにした。
ケイイチが荷物をまとめて、ヒッチハイクを開始していると、黒塗りの高級そうな車が止まった。
「ここでなんばしとっと?」
運転席から顔を出した男性が鹿児島弁で話しかけてくれたので、恐る恐る近づく。
事情を説明すると、「誰が断ったんじゃ」と言い出した。
どうやら貨物船会社の社長らしかった。
「わしに付いて来い」と言う。
トイレ掃除、お風呂掃除、皿洗いをすることで、鹿児島から沖縄、沖縄から鹿児島の往復の貨物船に乗せてくれることになった。
沖縄に行けたことで、ケイイチは47都道府県を回れるんじゃないかと思いついた。
韓国に渡ることはとりあえず保留して、日本国内のヒッチハイクの旅を開始することにしたのだ。
時間は無限にある。
経験は無駄にならない。
事実、この1年ほどのヒッチハイクの旅で出会った人々は食べ物をくれたり、食べ物を買うお金をくれたり、余ったからと言って韓国ウォンをくれたり、この後の旅で大変重宝する寝る用のマットをくれたり、釜山行きのフェリーのチケットをくれたりしたのだ。
ヒッチハイクの旅を終えたケイイチは
2002年3月24日、ついに日本を飛び出した。