[掌篇集]日常奇譚 第35話 金縛り自在マン
子供の頃、金縛りに凝っていたことがある。
"凝る"ってなんだそれ? 金縛りなんて凝るようなものなのか、と言われそうだが、某オカルト雑誌を読んで、幽体離脱の方法だの金縛りのかかり方だのを真剣に研究して実践していたので、「凝っていた」と言ってもいいだろう。
凝っていたのは、つまり金縛りそのものではなく、幽体離脱の入り口としての金縛りだ。
ともあれ、そのかいあってのことなのか、子供の頃のぼくはずいぶん金縛りにかかりやすい体質になっていた。
二日に一回は必ずかかる。やがては意思で操れるようにもなった。よし金縛りにかかろうと思って寝れば必ずかかることができる。自在に操れるのはもちろん「かかる」ほうだけではない。解くほうもだ。金縛り自在マンというわけだ。
本来の目的の幽体離脱のほうはなかなか思うようにいかなかったが。
金縛りにかかった状態を利用する、というのが幽体離脱を最もやりやすい手順だった。愛読していたオカルト雑誌によれば。
目を覚まさないようにして体を起こすのである。そうすれば体から幽体だけが抜け出るという。
実を言うとけっこういい具合になることもあった。
ぼくはしばしば、体に引き戻されそうな強靭な力(それはものすごく強力なゴムのようだった)にあらがって、幽体で物につかまりながら懸命に肉体から這い出ようとしたものだ。しかしそのゴムの力が本当におそろしく強く、どうしてもそこから自由になれないのだった。なんとか成功できたのはせいぜい隣の部屋までの離脱だった。
そんな金縛り自在マンとなったぼくだが、一度だけ、えらく怖い思いをしたことがある。
中学の頃だったか、そのときぼくは、リビングのソファーに寝転がって本を読んでいたのだが、いつしか眠ってしまっていた。そしてアレがやってきた。金縛りだ。金縛りになるときは意識は醒めている。
来た来た来た、とさっそくぼくは幽体離脱の準備をはじめた。
だが、なにかが違っていた。
説明するのは困難なのだが、なにかいつもとはまったく違うおどろしげな気配を感じていた。
普通ではない。
胸がひどく苦しかった。誰かに上から押さえつけられているかのように。
こんな金縛りは初めてだった。
なにかがいる。
すぐ顔のそばに。
その気配がはっきりと感じられた。
そのなにかが吐く熱い息がぼくの顔に吹きかけられていた。
魚の腐ったようなひどい臭いだ。
恐怖にかられて声をあげようとしたが、口も開かない。
落ち着け、とぼくは自分に言っていた。おまえは金縛り自在マンだろう? まずは指先を動かせ。その一点に集中するんだ。
激しく静かな闘いは数十分間にも及んだかと思われた。
やがて、ぼくは汗びっしょりになって頭をもちあげた。とにかくすぐに動かないとまた「あそこ」に引きずりこまれそうだった。
ぼくの胸の上になにかが乗っているのが視界に入った。真っ白いなにかだ。
そいつはぼくが目を覚ましたのを知るとベロベロとぼくの顔面を舐めはじめた。
その当時、家では三匹の小型犬を飼っていた。マルチーズである。真っ白なかわいい犬だった。