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[掌篇集]日常奇譚 第43話 いつなんどきでも

 夕刻、仕事帰りの電車の中だった。
 この時間、シートに座れることは稀なのだが、この日はたまたま座ることができていて、イヤフォンで音楽を聴きながら本を読んでいた。それで気づくのには少し時間がかかった。

 子どもの声だ。泣き声。曲と曲のあいだに泣き声が漏れ聴こえてくる。
 そして視界の端にちょっとした気配があった。
 子どもがなにやらぐずっているようだ。それを母親らしき女性が懸命になだめている。周辺がちょうど「人だかり」のような状態になっていてはっきりとは見てとれないが。

 と、ぼくの向かいの座席に座っていた男性のひとりがさっと席を立ち、この母親たちに向かって席を譲るような身振りをして、しかし断られたのだろう、もとの座席に戻った。
 詳しい事情はもちろんまったくわからない。
 ちょっとした好奇心を覚えてイヤフォンを外すと、とたんに子どもの泣きわめく声が耳に飛びこんできた。まさに「飛びこんできた」という言い方がぴったりのひどい激しさだ。ぎゃあぎゃあというふうに聴こえる。
 その声にかき消されがちだが、母親の声も小さく聴こえる。すみません、すみませんすみません。しきりに謝っている。おそらくは周りの人に。
 一方、子どものほうはまったく治まる様子がない。
 こうなってしまったら駄目だ。自分にも覚えがある。泣きわめくこと自体がもはや目的のようになってしまい、それを自分でもとめられなくなるのだ。
 確か、アレがあったはずだ……とぼくは鞄を開けてごそごそ探し始めたが、どうも奥のほうにもぐりこんでしまったようで、なかなか見つからない。

 ぼくがそんなことをしているうちに、さきほど席を譲ろうとした男性がまた席を立ち、今度はそのまま母親たちの輪の中に入っていった。手になにかを持っているようなのがちらりと見えた。そして会話。はっきりとは聞き取れないが。
 ぶっそうなことになりそうな様子ではなかったが、それでも気にはなる。ぼくの周りの人たちもどことなくさわついている雰囲気だ。もっとも車内はとうてい落ち着いていられるような状況でもなくなっているが。

 そのとき、やっと探していたものが見つかってぼくはそれを鞄から引っ張りだした。チラリと確認して席を立つ。手にそれを握って。そして輪の中に入っていった。最前の男性のように。ちょっとした喜びで胸がわきたっている。
 その男性はちょうど輪から出てくるところだった。すれ違う男性をよけつつぼくは輪の奥に入り、その中心で顔をぐしゃぐしゃに濡らしている男の子のそばに近づいた。

 男の子の泣き声はさきほどまでよりは鎮まっていた。その右手にはチョコレートバーが握られている。さきほどの男性が渡したものに違いない。そのチョコレートバーの効果だろうか。ほかにもいくつかのお菓子の袋らしきものなどがあたりに落ちているのが目に入った。

 ぼくは、鞄から見つけだしたものを男の子に見せた。もちろんただ見せたのでは芸がない。シュッパーと服の陰から勢いよく出現させ、ぎゅーん、ごー、と口で効果音をつけて飛びまわらせる。
 小さなフィギュアだ。なんのキャラクターかは知りもしなかったが、なにかのヒーローのようだった。ペットボトルのジュースを買ったときに付いてきたもの。いつか役に立つかもしれないと思って鞄に投げ入れていたのだった。いつか……そう、たとえばこんなときに。
 アクロバティックな動きをするフィギュアに男の子はすぐさま興味を示した。ぼくが名前も知らないヒーローは、男の子がのばしてくる手をシュシュパーとかっこよくすり抜け、髪のジャングルをスパスパパーとくぐり抜け、目にもとまらぬスピードで飛びまわって、男の子の手の中にスタッと着地した。男の子はすぐに夢中になりはじめた。

 大成功だ。そしてぼくにできることはもうない。ぼくは輪から出ようとして体の向きを変えた。その目の前に若い女性がいた。いきなり振り向いたぼくと顔を突き合わせる具合になって少し驚いた表情を浮かべている。ぼくは軽く謝って、彼女と場所を入れ替わるようにして輪の外に出た。彼女は手に大きなキャンディを持っていた。その後ろには、小さなぬいぐるみをかかえている中年の女性が並んでいた。
 座っている人たちの何人もが自分の鞄をあけてごそごそとしきりになにかを探していた。たぶん、なにか役に立つものはないかと。
 その彼らの様子を見るともなしに見ながら、電車を降りたらまたなにかを仕入れておかねばとぼくは思った。もっといろいろ。もっとたくさん。いつなんどきでも手を差し出せるように。

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