[掌篇集]日常奇譚 第36話 蝉の恩返し
蝉が嫌い、怖い、という人はけっこう多くて、理由をたずねると、やつら、ひっくり返って死んだふりをしていて人が近づくといきなりビビビビ!と騒いで暴れだして脅かしてくるからだという。
いや、死んだふりしているわけではないし。
脅かそうとしているわけでもないし。
必死やねんで。
たとえば、自分が背中に巨大なランドセルのようなものを背負わされてひっくり返されて起きあがれなくなってしまった状況なんて想像してごらん。
ひっくり返った蝉は一見死にかけているように見えるけど、ひっくり返っているのを戻してあげると案外元気に飛んでいくことも多い。そこからの蝉の寿命がどれくらいあるのかは知らない。一日かもしれないし、一時間なのかもしれないけれど、象の時間、ネズミの時間というように、蝉にとってのその時間は充分に長いものである、という可能性はある。
ともかく、放っておけばほぼ確実にそのままなにもできずにひっくり返ったまま死ぬ。ほんのちょっとした手間で助けられるのなら助けてあげてもいいのではないのかな。怖がらずに。別に直接手で触って戻してあげなくてもいい。足先でちょんとしてもいいし、葉っぱかなにかをつかってもいい。
ところで先日、実に本当につい最近のことなのだが、自宅に帰ると玄関の前でひっくり返っていた蝉がいたので、足先でちょんと起こしてあげたら元気に飛んでいった。
よかったよかったと思っていると、夜になって蝉みたいな顔の人がやってきた。
恩返しをしたいという。
「恩返し?」
「夕方、助けていただいたので」
「蝉なの?」
「はい」
もちろん信じたわけではない。しかしどう言っていいのかもわからず、とりあえず、「何ができるの?」と訊いてみた。
「すてきに鳴きます」と蝉のような顔の男はきまじめに答えた。
「鳴く?」
「はい、少しやってみせましょうか」と言うなり、ミーン!! ミミーン!! と男が近所迷惑なすさまじい音量で騒ぎ始めたので、ぼくはとりあえずあわてて男を転ばせてひっくり返した。