無題

[掌篇集]日常奇譚 第48話 ふたつ名

 先日、さわやかな声で嘘をつく(としか思えない)人の話を書いたのだが、実はある意味同種のものを間近で目撃したこともある。
 昔、ホテルで仕事をしていたときのことだ。ある若い女性スタッフが客の電話を受けたのだが、それがいわゆるクレームの電話と化した。それも怒鳴ったりわめいたりとかなり激しいものだったようで、あげくのはてにその客が名前を聞いてきたらしい。どのような訊き方をしてきたのかまでは知らないが、そこで彼女はおそろしさのあまり、思わず嘘の名前を名乗ってしまった。
 まずかったというか運が悪かったというか、その後、その客が再度かけてきた電話を取ったのはまた彼女だった。客はそこで、彼女が名乗った「嘘の名前の担当者」を呼び出そうとしたようだ。彼女はもちろん、そんな従業員はいませんと答えたが(そのこと自体は嘘ではない)、しかし客はすぐに彼女が本人だということを見破った。それでさらに大きな騒ぎになってしまった。
 彼女はその後もちろん強く叱責されたし、ぼろぼろ泣いていたし、なんて馬鹿なことをしたのだ、おかしいのではないか、などと、ほかのスタッフたちからひどい言われ方もされていたが、彼女がそんな嘘をついてしまったなりゆき自体は理解できなくはない。
 クレームのたぐいは何度もぼくも受けたことがあるが、それはもうひどいものだ。脅迫してくる相手もいる。「いまから行くからな」「覚悟しとけよ」――大げさではなく、本当にそういうことを言ってくる。乱暴な言葉で怒鳴りまくり、そのあげく「おまえ名前はなんだ?」と訊いてくる。しかも実際に暴力をふるわれることもある。おそろしくて気が動転するのも当然ではないか。だから嘘を答えていいということではないにせよ。

 だが、そもそも客に名前を教える必要などあるのだろうか?
 重要な個人情報である。
 そして客といっても実際のところ得体のしれない相手である。なかにはおかしな人ももちろんいる。客に私生活の部分でつきまとわれた女性スタッフも知っている。
 むしろ不用意に名前を教えるほうがおかしいのではないのか?
 もちろんまったくの名無しでは、仕事がやりにくいということはあるだろう。ならば、仕事上で使う名前を設定すればいいのではないのか。Aさん、B氏。それでいいではないか。本名である必要はないはずだ。実際、筆名や芸名などもそのたぐいのものだが、それで深刻な不都合は起きていない(はずだ)。
 いっそ、制度化すればいいのではないか。国で。いや全世界で。
 誰もが本名は隠して生活する。本名を知るのはごく身近な人と行政だけ。社会一般的にはずっと別称のほうを名乗る。別称といっても制度化されているわけだから行政に届けなりは出さないといけないが、本名を変更するよりははるかに簡単にできるそういう仕組みにする。
 ケルトだとか伝承的な話で、他人に本当の名を知られてはいけない、というのがあるが、それの制度化バージョンみたいなものだ。

 そんなことを考えていて、ふと思い出したのは、あるところで短期間働いたときのことだ。
 そこでは、本社に集められた契約書類を区分けして簡単なチェックをし、全国にある支社に送る、という仕事をした。その仕事をしていたのは三名で、ぼくはその小さなチームのリーダーだった。もともとは別の三名がやっていたのだが、彼らが辞めることになり、それでそっくりそのままぼくらに引き継がれたのだった。
 作業内容は簡単なものだったが、発送業者が毎日決まった時間にやってきて絶対にその便にまにあわせなくてはならなかった。だからぼくの役割は、全体量と作業進捗を常に測りつつ定刻までに作業が終わるように調整するものだったと言える。調整と言っても、自分自身の手を速めたり、ほかのふたりに声をかけたり、ときには昼休み時間を短縮したり、と、できるのはその程度のことだったが。
 ぼく以外のふたりは男性と女性ひとりずつだったが、そのうちの男性のほうが、こう言ってはなんだが、少し変な男だった。空気が読めない――この言葉はあまり好きではないが――確かにそういう表現がぴったりだった。
 たとえば、ペースをあげないとこのままだと間に合わない。そう言って促しても、いまの政策についてだのどうでもいいことについてひとりで熱中して話をしていて、作業をする手は完全にとめてしまっている。そういう種類の「空気の読めなさ」だ。
 この男の名前だが、ぼくたちの周辺にいたほかの社員たちは、なぜか「ぼくの名前」で認識していた。ぼく宛に電話がかかってくる。すると、その電話をとった人はその男に「電話ですよ」と電話をまわす。
 いや、原因は薄々想像できていた。
 座席のせいだ。
 リーダー席……ぼくたちの前にいた三名のうちのリーダーが座っていた席にその男は座っていた。席くらい別にどうでもいいことだと思ってぼくはそのまま彼に座らせておいたのだが。だから周辺の人たちは彼がリーダーとおそらく思いこんでいたのだろう。つまりある意味この男はぼくのアイデンティティを奪っていたということになる。
 こんな具合に、彼はリーダー席に座り、周辺の人たちからぼくの名前で呼ばれ、おそらくは名前だけではなく彼がぼくだと思われている、という、こういう心地の悪い状況の職場でぼくたちは一緒に数箇月間仕事をした。
 些細な問題はときおり起きたし、この男とは口をきくのも不快だったが、もうひとりの女性とはうまくやれていて、まずまず我慢できない職場でもあるまいと思っていた。
 大きな問題が発生したのは、そうして何箇月か経った頃のことだ。
 その数日前から、女性のほうが四日間、休みをとると言っていた。旅行に行くのだと言う。それに合わせて、一日は臨時のヘルプ要員に来てもらえることになったのだが、残りの三日間はどうしても人員の手配ができなかった。
 三人でやっていた作業がふたりになる。この負担は大きいが、必死にやればなんとかなるだろうとぼくは覚悟を決めた。彼女は申し訳ないねと言いながら、しっかりやりなさいよと例の男にハッパをかけていた。なにしろそういうことをいちいち言わないといけないような空気の読めない男だった。
 そして当日がやってきた。初日は約束どおりヘルプ要員が来てくれて、二十歳くらいの若い女性だったのだが、てきぱき動くうえに感じもいい人で、このうえなく気分よく作業を終えることができた。
 しかし翌日からはふたりだけだ。ぼくはそれなりに気合を入れた顔つきをして早めに出社し、ひとりで作業を始めた。だが始業時間になっても男は来なかった。昼になっても来なかったし、夕方が近づいてきても来なかった。
 ひとりではさすがに無理だ。急いでヘルプを要請していたが、誰も手配できないという返答しかなかった。時間はどんどん迫る。定刻までに絶対にまにあわせないと全国の支社の契約に影響が出る。だがどんなに頑張ってもどうにもならなかった。頑張る頑張らないの話ではない。無理なものは無理だ。泣きそうだった。
 結局、まわりの席の人たちが状況に気づいてくれて、自分たちの仕事を投げ打って何人もで手伝ってくれた。慣れない手をふりまわし、どう処理すればいいのか大声でたずねる人がいて、ぼくも大きな声で回答を返し、封筒をかかえて走る人がいて、団結感もあって少しだけ楽しかったといってもよかったかもしれない。
 それが、三日間続いた。
 その三日間、空気の読めない男は丸々休んだ。
 ぼくは三日間とも終電近くまで仕事をした。そのうちの一日は終電さえのがした。
 そうして怒涛のような三日間が終わり、旅行に行っていた女性と、なにくわぬ顔をした男が、出勤してきた。
 急に具合がわるくなって、と男は言ったが、そんな感じはまったくなかった。
 ありえないでしょ、と女性はぼくの代わりに言葉を吐き捨てた。私が休むとわかっているくせに。なにやってんの?
 ともかくこれでいったんもとに戻ったように思えたが、それから数日後に不吉な電話がかかってきた。ぼくたちを派遣している元の会社の担当者だ。
「今月で終了が決まりました」と担当者は告げた。「この案件から退場です」
「え……」とぼくは言葉を詰まらせた。
「ほら」と担当者はぼくの名前を呼んで咎めるように言った。「この前、休んだりしたじゃないですか。ああいうのがね、やっぱりかなりまずくてね。みんなに迷惑かけたしね」
 そして、謝罪の言葉を期待するように担当者は少し様子をうかがった。
 急に休んで多大な迷惑をかけたのはぼくだったらしい。なぜなら、みんなの認識では、あの男がぼくだからだ。リーダー席に座っていてぼくの名前で呼ばれている男が急に休んだのだから、ぼくが休んだということになるのだった。
 それではぼくはいったい誰だと認識されていたのだろう?
 名前のない人間だったのだろうか。
 そんなこともかすかに気になりながらも、けれどもあれから年月が経って、いま思うのは、あの大変だった三日間、みんなで叫び合いながら必死に作業をしたあれはやっぱり少し楽しかったな、ということなのだった。もう誰の顔も名前も覚えていないけれども。

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