[掌篇集]日常奇譚 第34話 ネームプレート社員

 ある意味ではフリーランスの特典と言おうか、大手の企業から小さな会社まで、ずいぶんいろいろな会社に出入りしてきている。

 どこの会社でもたいていは従業員の出勤状況を示すものが設置してあって、それはホワイトボードであることが多いようだ。全員の名前がずらりと書かれてあって、休暇の予定などを書くとか。名前の書かれたマグネットのネームプレートが貼ってあって、出勤すれば表にする、退社時には裏返す、とか。

 個々の出勤状況がわかるというだけではなく、外部から働きに来ている人間にとっては、勤務している人が何人いるかだとか、あるいはすぐには覚えきれない人の名前を覚える役に立ったりもする。どこに何人がどれくらいの期間出向しているかなどということから少し会社の状況を知る手がかりを得たりもできる。

 また、しばらくその会社で働くうち、まったく顔を見たことがない人がいることにふと気づいたりもする。出向しているとか出張しているとかそういうことではなく。普通に理解すると、とっくに会っているはずなのに一度も見かけたことがない不思議な人物。

 たとえば、五人の部署で働いているとしよう。ホワイトボードにはきちんと五人の名前がある。けれどもそのうちひとりだけはいつも不在になっている。ホワイトボードには何も書かれていない。しんと静まり返っているかのようにずっと変化がない。いったい何者なのだろうと次第に気になってくる。
 ピンと来る人はもうピンと来ているだろう。そして何も気づいていないようにふるまうのではなかろうか。ぼくも今ならばおそらくそうする。

 が、始めのうち、ぼくは何も知らず、あるとき好奇心に負けて、「あの人は見たことがないんですけど、どういう人なんですか?」と無神経なことをたずねてしまった。
 あ、ああ……、とたずねられた人は口ごもった。「ちょっと休養で……。ずっと休んでる」

 その頃は「前兆」のような時期だったのかもしれない。まだそれほどは多く見かけなかったような気がする。けれどもそれからまもなく、あっというまに増え、いつしかまったく珍しいケースではなくなっていった。
 ある朝突然、会社に来られなくなる人。
 ある日を境に延々と長期休暇をとり続ける状態に陥った人。
 大きな職場に行けば、必ずと言ってひとりやふたりはいるのだった。ホワイトボードに名前だけがあって、一度も姿を見たことがない人。ひどいときにはひとつの部署のなかに何人もそういう人がいる。その部署なり直属上司なりに問題があるのは明らかなのだが、様子を見ていると上の人間はなかなかそんなふうには考えないものらしい。

 ある頃に働いていた会社にも、ネームプレートだけのそういう人がいた。
 その頃にはさすがのぼくも、見て見ぬふり、気づいていても気づいていないふりをするようになっていた。目に入っているが、何も見えていませんよと。みんながそうしているように。
 ただそこは少しだけおかしなところがあって、たとえば旅行で土産の菓子を買ってくると、"彼"の机の上にもきちんと配るのだった。会議では"彼"のぶんの資料も用意される。

 そうした様子は、"彼"がいつふいに出勤してきてもいいようにしているかのようでもあり、"彼"がいないことに誰も気づいていないかのようでもあった。後者であるわけはなく、だから前者であり、おそらくこの妙な風習は会社の犠牲者とも言える"彼"に対する誠意なのだろう。ぼくはそう考えていた。独り立ちして家を出た子供の部屋をずっとそのままにしておく、そんな種の感情であるのかもしれない。
 一見するとおかしな風習とも思えたが、常態化するとどんなことでも慣れてしまうもので、半年も経つ頃には、ぼくも休暇明けには何の違和感もなく"彼"の机に菓子を置くようになっていた。顔も知らない相手だが。そこは大人のマナーというものである。

 当然、みんなが休暇を取る時期には、"彼"の机はいつも土産物で山のようになってしまう。
 何週間かすると、気を利かせた人が、「○×さん、食べないの? もう傷んじゃってるんじゃない? 片づけるよ」などと"彼"に声をかけながら処分するのであった。平和な光景だった。

 ぼくがここで働き出して一年も経った頃、ここに宮村さんという若い女性が入ってきた。外部の会社からの派遣契約の人だった。
 いまどきの人らしい……と思ったが、実際はどうかわからない。いまどきのという存在にそれほど詳しいわけではない。とにかく宮村さんは、思ったことを何でもしゃきしゃきとものおじせず言うタイプの人だった。悪く言えば、無遠慮、ということだが。
 宮村さんはすぐ、"彼"に違和感をもったようだ。
 やってきて一週間後には、「この人、なんなんですか?」と、ホワイトボードの"彼"のネームプレートを指さして言っていた。
 訊かれた人が、「あ……まあ、ちょっとね……」といかにも答えにくそうに答えるのが聴こえた。
「ちょっと? いっつも休んでるからいったいなんなのと思っちゃって」と宮村さん。「来ないんだったら、これ外しちゃえばどうですかー」
「いやそれはマズいよ」
「えー、なんでですかー?」

 そんな宮村さんが問題を起こすのは初めからわかりきっていたことだったのかもしれない。
 とはいえ、宮村さんだけをことさら咎めるつもりはない。みんながきちんと彼女に話しておかなかったのがいけなかったのだ。いかにも話しにくいことであったとしても。

 宮村さんがやってきて一箇月ほど経った頃、比較的大きなプロジェクトのキックオフ会議が開かれることになった。宮村さんがその会議準備を整え、十数名のメンバーが各々席に着いたところで、まず少し妙な空気が漂ったのは気のせいだったのだろうか。誰かがちょっとした禁忌や失言を犯したときに流れるたぐいの嫌な雰囲気だ。
 席にはあらかじめ会議資料が配られていた。人数ぴったりだ。"彼"を除いたぴったり。従って"彼"の席もない。宮村さんはそもそもこの会社の慣習を知らなかったのかもしれない。
「えと……○×さんは……」
 席に座る宮村さんに、古馴染みの社員が言いにくそうに声をかけた。
「○×さん?」と宮村さんは悪気のない様子でしゃきしゃきと言った。「だって○×さんはお休みじゃないですか。いつも」
「いや……」
 古馴染みの社員がはっきりしないながらもさらに何か言おうとしたとき、
 がこん! と耳障りな大きな音とともに、宮村さんが悲鳴をあげながら後ろに吹き飛んだ。何者かに乱暴に突き飛ばされたかのように。宮村さんは横倒しに床に倒れたが、特に怪我もしなかったようで、すぐに立ちあがってバツが悪そうに椅子に座りなおそうとしたが、そこでまた弾き飛ばされて悲鳴をあげた。
 悲鳴はやまなかった。
 赤子のような激しい声で宮村さんは、痛い! いだい! とわめいて床の上でバタンバタンと体をくねらせていた。その腕の肉が雑巾のようにねじれていた。誰かに絞られているみたいに。
「まずい!」と誰かが叫んだ。
「席だ! 席だ!」と別の誰か。
 そうして宮村さんが床で泣きわめくのをよそに、みんながあわただしく駆けまわって、大急ぎで資料がコピーされて椅子が用意されて、"彼"の席がつくられた。

 この事件のあとにようやくこの会社の事情を教えてもらうことができたのだが、ぼくはいくつかの根本的な勘違いをしていた。
 まず、"彼"は休んでいたわけではなかった。毎日きちんと出勤してきていた。
 次に、"彼"は亡くなっていた。過労死だったらしい。ひとりでやっていた残業中に亡くなり、翌朝出勤してきた同僚に発見された。
 しかし"彼"は亡くなったあとも出勤を続けているのだった。
"彼"は朝九時前には机に着き、一日働いて帰宅する。だからみんなもそう扱わなくてはならない。
 それはそうだろう。もしもあなたが出勤して、みんなに無視されていたらどうする? 自分だけ土産物をもらえなかったらどんな気分になる? 会議に出て自分の席がなかったらどうする?
 そういうことだ。

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