[掌篇集]日常奇譚 第32話 フエルアンブレラ

 傘は玄関の外に置く習慣にしていた。アパートの外廊下とでもいうのか。壁を這っているパイプや窓枠のあたりに傘の柄を引っかけて並べていた。狭いアパートなので当然のごとく玄関も狭く、そんな貴重なスペースに傘を置くと出入りするたびに邪魔になって仕方がない。それでいつのまにか外に置くのが常態化していた。
 アパートまで来てわざわざ傘を盗んでいく人もいないだろうと思っていたのだが、さすがに外に並べていたのはコンビニエンスストアで購入できる安物のビニール傘ばかりだ。出先で雨に降られるたびに買って帰るのでどんどん増える。仮に盗まれたとしてもそれほどは痛手のあるものでもない。数本程度ならむしろ持っていってほしいくらいだ。

 異変に気づいたのは、小雨が降っていたある日曜日、買い物に行こうとして、ぶら下がっている傘に一本を手に取ろうとしたときだった。
 違和感。
 なにかがおかしい。
 どこかが。
 しかしそのときは違和感の正体がわからなかった。
 気持悪さを少し感じつつゆっくりと手をのばして傘を手に取り、そしてそのことは忘れた。

 思い出したのは三日後だ。その日は朝からずっと雨が降り続いていて、だからアパートの外に並べている傘のうちの一本を差して仕事に出かけたのだった。夜、帰宅して、使っていた傘をまた並べておこうとして手がとまった。
 濡れている。並べたままの傘の一本が。
 わずかな濡れ方だ。本来の用途に使用して濡れたのではなく、雨の中を運んで少し水滴が付いてしまったかのような。ちょっと拝借とばかりに誰かが勝手に使用して、戻した、ということではなさそうだ。それともそうなのだろうか。もっと濡れていたのが乾いただけなのかも。使用時には小降りだったということも考えられる。
 しかしそもそも……
 その傘をじっと見る。
 この傘はもとからあっただろうか?
 違和感の原因はこれだった。


 見慣れない傘……というのはおかしな言い方だが。どこにでもあるようなビニール傘だ。何本も並んでいる傘との区別もほとんどつかない。ビニール傘とひと口に言ってもよく見れば留め具の形が少しずつ異なっていたり、大きさが違っていたり、あるいは値段のステッカーが貼られていたりなかったり、それぞれの微妙な違いはあるものだが、普段それほど細かく注意して個々のビニール傘を認識してはいない。それはそうなのだが、しかし今目の前にあるしっとり濡れた傘にはどうも見慣れない感じがしてならないのだった。
 特徴を把握していなくても数が増えていればすぐに気づくだろうと言われそうだが、二、三本ならともかく、仮に一二本が一三本に増えていてもわからないのが現実だ。
 で、きちんと数を数えてみた。一一本だった。それから思いついて、携帯電話の付属のカメラで写真も撮った。これなら完璧だ。傘に変化があれば必ずわかる。

 変化があったのは、およそ一箇月後のことだった。
 増えていた。
 疑いようがない。写真よりも一本増えており、数えてみた数ももちろん増えていた。勘違いのたぐいでは決してありえない。証拠が出てしまっている。
 なんだ、これは?
 喉のあたりになにかがつかえたような不快感。
 思わず周囲を見まわした。
 いつもと変わらぬみすぼらしいアパートの外廊下。なんの変哲もない。ただ傘が勝手に増えていることを除いては。
 気味が悪かったが、どうしようもない。
 きっとなにかの間違いなのだろうと……たとえば隣人がひょいと傘をかけてそのまま忘れたとかそんなことなのだろうと無理矢理自分を納得させて、また写真を撮ってから部屋に入った。

 次に変化があったのはそれから二箇月後だった。
 増えていた。違いがひと目でわかる薄汚れたビニール傘だった。
 それからさらに、一週間後にもう一本。
「なにかの間違い」などではない。
 これは、故意だ。
 しかし意味がわからない。
 いたずらなのだろうが、他人の家に傘を置いてなんの意味があるというのか。それともいやがらせか。それにしてもこんないやがらせがあるだろうか。おそらく近隣住人だろうが、いやがらせを受ける覚えもまったくない。それにこんないやがらせに対するダメージもないと言えばない。むしろ傘がただで手に入っている。気味が悪いという精神的なダメージはあるにせよ。
 隣の住人だろうか、それとも上の階のあいつか、いや、向かいのあいつも怪しい、などと思考がぐるぐる回り、胸のなかがどす黒く染まっていく。警察に届けるべきかとも思ったが、いざと考えるとそれも億劫だった。なにしろ被害らしい被害はないのだ。面倒臭がられて終わりそうだ。あまり解決に結びつく気もしない。

 というわけでそのまま月日が経ち、傘がさらに二本増え、そんなある日のことだった。
 その日は風邪でひどく体調が悪く、やむをえず会社を早退して真っ昼間に帰宅した。アパートの階段を昇っていくと部屋の前に誰かがいるのが見えた。女性だ。三十歳前後。傘を持っている。まさにその傘を窓枠にかけようとしているところだった。
 鼓動が跳ねた。
 残りの階段を大股で、しかし大きな音を立てないようにして昇り、すばやく彼女に近づいて、「ちょっと」と声をかけた。「なにやっているんですか」
 女性は驚いて一瞬ビクッとしたものの、案外……というか、異常なほど落ち着いた様子で、「傘」と手に持っている傘を見せて言った。「届けに来たの」
「いや、だから、なんですか? ここぼくの家なんだけど。勝手に変な傘置いていかないでもらえます?」
「でもあなたの傘だよ」と彼女は言った。
「は?」
「忘れ物」
「え?」
「これは」と彼女は持っている傘をまた持ちあげて見せた。「八年前、あなたが札幌に主張したとき、夜、シャワー浴びたあとでコンビニエンスストアに行って、置き忘れてきちゃった傘」
「……え?」
「この前届けたのは、わりと最近で、三箇月前に会社から帰るとき、電車のなかに忘れてきた傘。手すりのところに引っかけたまま降りてしまった」
「ちょ……」
 三箇月ほど前に傘をなくしたことがあるのは事実だ。八年前に傘を忘れたかどうかなんてことは覚えていないが、札幌には確かに行っていた。
 どういうことだ?
 この女性はなぜそんなことを知っているのか?
 そんな細かいことを。
 それになぜその傘を持っているのか?
 なぜ返しに来るのか?
 そもそも彼女はいったい誰なのか?
 調子づいたように得々と傘の説明をしていく彼女の顔をただ見つめて、こんなにわけがわからないのは風邪による発熱のせいなのだろうかとぼんやり考えていた。

いいなと思ったら応援しよう!

みつき🌙🐈‍⬛🐾໊
サポートしてええねんで(遠慮しないで!)🥺