18/9/15 慈悲と客観性
じぶんがよく見られたいとか、そういう思惑を捨てて、ひたすら他者を幸せにするべく奉仕する人を見かける。これはなかなか真似できることではないし、結果的に多くの人の支持を集めているのも分かるかな。ただ、他者を見つめる彼の熱を帯びた眼をはたから見ていると、ちょっと危なかっしいと感じるのも事実です。
仏教でいう「慈悲」はキリスト教の「博愛」と比較されたりもしますが、少なくとも「慈悲」は自らを客観的に見つめるだけの知性を備えていなければいけません。「他者のために」「他者を愛する/救う」という批判しようのない名目は、しばしば(本人も意識しないうちに)全く別の目的のために利用されてしまいます。たとえば、愛の名のもとに他者の存在を支配しようとする、人間のありふれた振る舞いを見れば、その危険性は一目瞭然です。
おそらく現代社会においては「客観性を持つことと慈悲(愛情)とは矛盾するのではないか?」という意見が多くを占めるでしょう。とはいえティク・ナット・ハンも書いているように、客観性に欠けた愛とは、決して愛ではないのです。