18/9/18 勉強=瞑想の可能性
ワールポラ・ラーフラ『ブッダが説いたこと』を読む。仏教入門として名高い本書ですが、著者が「仏教について勉強し、哲学的に議論を交わし、テーマを深く検討すること」も一種の瞑想になりえる、と明言されているのが特に印象的でした。
瞑想というと「頭でっかち」の反対だ!と思ってしまうので、あたかも勉強や議論とは相容れないように感じますが、勉強や議論それ自体に心底集中し、また気づきと変容の姿勢を担保できるならば、それ自体が瞑想であるというのは納得です。そもそも勉強や議論は「頭でっかち」になるべくやるものではないし、今の自分の思考を批判的に解きほぐし、そのつど限界を突破するものでもある。勉強=瞑想が、特に初期仏教と相性が良さそうなのも分かります。
認知科学の観点によれば、身体知というのは言語化と対立するものではなくて、お互いが補完し合うものだと言われています。「ことばにできないもの」をことばにする努力を経ることで、「ことばにできないもの」は蔑ろにされるどころか、むしろ新たに展開されていくのでしょう。