虚子と藤村と坂のまち ―第15回こもろ日盛俳句祭
「第15回こもろ日盛俳句祭」が、今年の七月二十八日から三十日、三日間にかけて長野県小諸市で開催された。私は二日目の午後から三日目にかけて初めて参加してきた。この俳句祭は、二〇〇九年、俳人の本井英氏(「夏潮」主宰)らが中心となり立ち上げ、小諸市の主催により続いている。新型コロナの影響で、対面での開催は四年ぶりという。
名称の「日盛」の由来は、第二次大戦末期の一九四四年に鎌倉から小諸に疎開していた高浜虚子(一八七四~一九五九年)が開いていた「日盛会」。日盛会は虚子が真夏の一か月間に毎日句会を開いていたもので、本井氏も当初それに倣って一か月の間午前午後と句会を開いていたようだ。それが、全国から数百名の参加者が集う、市をあげての俳句のイベントとなった。なお、現在中心的な運営者「肝煎り」として尽力されている俳人は、窪田英治、仲寒蟬、山田真砂年、の各氏である。
三日間、参加者は、午前中は市内の名所や高原など小諸の地を吟行して回り、午後は俳壇で活躍中の「スタッフ俳人」たち約二十名を中心として八つの施設で句会が行われた。
今年は小諸も大変な猛暑、そして晴天で、まさに日盛りであった。三日間通して参加されたという方は、充実した疲労感でいっぱいの様子だった。
小諸の地形と小諸城址
小諸は坂の町である。小諸駅東口を出ると、ロータリーわきの左右に、登り坂に店舗や家屋が続いてゆく。線路を挟んで反対の西口には小諸城址でもある公園「懐古園」がある。
小諸城は全国的にも珍しい「穴城」と呼ばれている。ふつう城は天守閣など城の中心が高い場所に置かれ、城下町はその周囲の低い場所にある。しかし小諸城は逆。城が城下町より低い傾斜地の末端に築かれている。そこには、次のような地形的特性が生かされた都市設計がなされている。
小諸は活火山である名峰・浅間山のふもとに位置し、その浅間山の噴火で多量の火山灰と軽石が降り積もった台地の上にまちが形成されている。そのようなもろい地盤であるので「田切地形」といって川の流れなどで削り取られて深い谷底を形成しやすい。小諸城の左右と後ろはこの絶壁の谷によって守られ、これが普通の城のお堀の役目を果たしている。敵が攻めてこられる場所を前方の入口の門に集中することで、城の守りを固めている。現在の駅の東側に残された「大手門」は小諸城の正面玄関であり、その厳格な姿を今に伝えている。下り坂を勢いよく降りてきた敵も城への唯一の入口である強固な門で足止めを食らってしまう、自然の地形を生かした守備戦術に感心した。
このような地形を生かした小諸城址と城下町のつくりを私はとても面白く感じた。下り坂が城へと収斂していくイメージが、自然に身をゆだね、不要なものをそぎ落としていく俳句の在り方とどこか通じ合うものがある気がしたのだ。また城主よりも庶民のほうが高い場所に住んでいるというのも、民主主義の理念を先取りしているようで痛快だった。
懐古園、島崎藤村と小山敬三
さて、駅の東から西へ渡す地下道を抜けて、緑と歴史のあふれる別世界「懐古園」に入る。ちなみにこの地下道を西に出るときに昇った階段の段数は五段ほどだったと思う。東口が高く、西口が低い、ここでも坂が続いている。そんな坂の下にあるからだろうか、懐古園は地形と緑に守られているような、ゆっくりとした時間が流れていた。
懐古園の三の門をくぐり右手に進んでいくと、平屋建ての建物「小諸市立藤村記念館」が見えてくる。島崎藤村(一八七二~一九四三年)は一八九九年に「小諸義塾」の教師として小諸に赴任し、一九〇五年に東京に居を移している。小説『破戒』の原稿を書き始めたのもこの地である。記念館の展示の中でも特に私の印象に残ったのは、藤村の書「簡素」であった。
藤村が小諸に赴き専心した「写生文」のための一書の序であるが、「簡素」には俳句との関連も思われた。後で『藤村随筆集』(岩波文庫)を開いたところ、芭蕉や鬼貫など俳句への言及がかなりある。さらに「物を書くことは、よく物を観ることだ。またよく物を記憶することだ。」(「観ることと書くこと」)という言葉もあった。日本自然主義文学の代表作家である詩人・小説家と、後に「客観写生」を提唱して現代の俳句の一つの基礎を築いた高浜虚子が、滞在時期は違えどもこの小諸に暮らしていた。小諸が文学における自然主義や写生ということと縁深い土地であることは間違いないだろう。
次に、藤村記念館を出て先に進み、城に向かって右手側の谷・地獄谷にかかる酔月橋を渡り、公園の端に位置する「小山敬三美術館」まで足をのばした。
小諸に生まれた小山敬三(一八九七~一九八七年)は、日本における西洋画を築いた先駆者の一人である。展示されている絵画の、噴煙の昇る紅い浅間山の迫力、人物画の深いまなざしなどに強く惹き付けられた。年譜を見ると、「一九一七年、父の勧めで島崎藤村を訪ね、フランス留学を勧められる」とあり、その後一九二〇~一九二八年までフランスに留学し西洋絵画を学んできている。藤村とは小諸の土地が結んだ縁だ。文学者と画家の間でどのような芸術談義が交わされ、藤村がどのような助言をしたのか、興味深い。また小山は、フランスやヨーロッパの風景など様々な題材を経て、後年に浅間山や小諸城址など故郷小諸の風景を多く作品に残していることも、この地の自然が画家を惹きつけてやまなかったことが思われる。
筑紫磐井講演会「虚子と季題」
さて、散策から戻り、市民交流センター・ステラホールにて行われた筑紫磐井氏による小諸講座「虚子と季題」に出席した。
冒頭、能村登四郎の「沖」で編集長の林翔より俳句評論を教わったことが筑紫氏の原点であると自己紹介された。筑紫氏も編集委員の一人として関わった『林翔全句集』が今年十一月コールサック社より刊行される。
講演の主旨は次のようであった。「有季」の俳句の詠み方は「季題派(題詠派)」と「季語派(季感派)」の大きく二つに分かれる。虚子はもちろん季題派であり、「ホトトギス」の句会や吟行も基本的には出題された題に乗っ取って句が作られ句会が進行される。季題派は類想句が多くなる半面、題を突き詰めた結果到達する名句もある。(なお今回の俳句祭にも兼題があり、一日目は「道をしへ」二日目は「片蔭」三日目は「瓜」であった。兼題に限らず当季雑詠でも出句できる。)
一方で季題から自由になった季語派の俳句の新しさや俳句の可能性もある。「馬醉木」の水原秋櫻子や新興俳句は季語派である。筑紫氏は、季題派と季語派のどちらが良い悪いではない、俳人によってどちらが向いているか違うのではないかと述べた。私個人が句を作る感覚としては、一人の俳人の中に季題派と季語派が共存し、両者が互いに刺激しあいながら一個の俳句的感性を醸成しているようにも思った。また筑紫氏は季題・季語以外への俳人の関心の広がり、社会性俳句の例として、大関博美氏の新刊『極限状況を刻む俳句 ソ連抑留者・満州引揚げ者の証言に学ぶ』を紹介された。
夜盛会
講演会後、夜の懇親会では立食パーティ形式で参加者やスタッフ俳人らとの交流や労いが行われた。その後、有志による句会「夜盛会」が場所を変えて行われた。昼の句会に続けてこれにも参加すれば、より俳句漬けの一日を味わえるというわけだ。「夏潮」の青木百舌鳥氏が取りまとめ役をされ、参加人数は私を含め十九名。参加者のスタッフ俳人を一部紹介すると、岸本尚毅、村上鞆彦、仲寒蟬、奥坂まやの各氏らであった。会場は小諸駅前の二階に店を構える「遠州屋」。看板には「信州の味」「郷土料理」とあり、親しみやすい。名物の鯉のあらいをつまみつつビールを煽り、しばし歓談。そのうちに席題が参加者から次の八題が出された。「神」「橋」「英」「竹輪」「冠」「夏座敷」「二階」「影」。ちなみに私は、店が二階であったことから「二階」を出題した。三十分間にこの八題の句を作る。しばしビールの手を止めて、人によっては飲みながら、集中の時が流れる。私が作ったうちの二句を紹介する。
その後それぞれの選句を披講、特選句の講評を行った(八句選うち一句特選)。私以外の句作品は省略するが、嘱目、ユーモア、小諸での吟行句に兼題を詠み込んだものなど多彩な句が出揃い、夏の夜の句会は大いに盛り上がった。十時ごろ夜盛会はお開きとなり、皆翌日に備えてホテルへ。
高原吟行と句会
翌日の午前中は、小諸高原美術館までバスで行き、美術館付近の飯綱山公園を散策・吟行した。高原からは夏雲を被った雄大な浅間山が眺められた。日差しは強いが、木陰に入ればやはり高原の涼やかさを感じられた。一緒に同行した俳人たちも、皆思い思いの場所に散って俳句をひねっていた。
高原から戻り、句会会場のベルウィンこもろへ。近くの蕎麦屋で昼食をとり、いざ句会へ(五句出し、五句選うち一句特選)。私が参加した句会のスタッフ俳人は、仲寒蟬、小林貴子、藺草慶子の各氏であった。仲氏、小林氏の特選を得た高評価句は次の一句。
高原やまちの各所で鳴いていた蝉をじっくり聴いた末に到達したであろう、聴覚に優れた句だ。「鳴き出し」「火打石」「油蝉」それぞれ削ぎ落された言葉の選択である。また火を起こす「火打石」は、当日の燃えるような日差しとも共鳴していた。
私が特選に選んだのは、
であった。小諸のまちの坂の所々にはこの百日紅の花が鮮やかに咲き、真夏の景を彩っていた。日盛りの炎昼を歩いていると、頭がくらっとしてきて、今まで見ていた景が裏返ったようにも思えた。そしてその魔法をかけたのは百日紅の花なのだ。
ちなみに私が出したうちの二句も紹介する。
高濱虚子記念館
句会を終え、最後にここだけはと思っていた「小諸高濱虚子記念館」まで徒歩で向かった。記念館に隣接する虚子庵は現在公開されている唯一の虚子旧居とのこと。畳と縁側の生活が見えてくる。展示は虚子が小諸時代に詠んだ句が中心であったが、写生文「虹」で描いた弟子・森田愛子(結核で若くして亡くなるが、虚子は熱心に三国まで見舞いに行った)との心の交流もこの小諸時代であったことは印象深かった。
また虚子が小諸に疎開していたということは、言い換えれば、小諸は虚子が終戦を迎えた地ということだ。終戦の日を虚子は次のように述懐している。
虚子はこの戦争に「俳句は何の影響も受けなかつた」と言った。その真意は、俳句とは、小諸の虚子庵から眺めた「アルプスの連山」や「秋の月」のような不変不動の自然の姿を詠み続けるものであるということだったのか。
人は戦争の影響を受ける。虚子はそこを離れる理想を俳句に求めた。しかし、人そして人々が関わる社会を離れて俳句は成立するのか。また、この「山川」を破壊しうるのも戦争だ。虚子も眺めた連山に問いかけつつ、私は帰りの列車に乗り込んだ。
虚子にしても藤村にしても、小諸は、人々を迎え、受け入れる土地であった。ここに訪れた者は土地の自然に抱かれ人々の温かさに励まされながら新たな表現意欲を得て、次の場所へ移っていく。そのようなこの土地の伝統は、「こもろ日盛俳句祭」にも脈々と引き継がれている。
「コールサック115号」より転載