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俳句とエコロジー ―令和五年度牡丹俳句大会講演録

日時 二〇二三年五月十三日(日)10時15分~11時30分
場所 福島県須賀川市民交流センター(tette)たいまつホール

皆さんこんにちは、鈴木光影です。昨日昼頃に須賀川に着きまして、永瀬十悟さんに牡丹園をご案内いただきました(地球温暖化の影響もあってか年々開花時期が早くなっているようです)。その後「桔槹」有志の皆さんと街中吟行をして市役所の展望台からウルトラマン(*須賀川は特撮映画監督の円谷英二の出身地で、市役所展望台がウルトラの父の身長と同じ高さに設計されている)と同じ目線を体感したりして、「風流のはじめ館」で句会をやりました。
実はそれ以前にも須賀川には何度かお邪魔したことがありまして、二〇一八年に牡丹焚火に参加したり、乙字ケ滝をご案内いただいた事もあります。この会場の「tette(テッテ)」もとても素敵な施設だと思っていたので、本日こちらでお話をさせていただくことを光栄に思っています。

今日は、最近特に地球規模でのニュースになっている「エコロジー」ということと俳句について、お話してみたいと思います。私は環境問題の専門家ではありませんが、一人の俳人としてこのテーマについて考えています。私の話を聞きながら、ぜひ皆さんも一緒に考えていただければ嬉しいです。

お配りしたレジュメの最初に、二つの質問を書きました。

Q1.「エコロジー(エコ)」と聞いて、どんなことが思い浮かびますか?
いかがでしょうか。エコバッグ、「エコだね」(省エネ)、リサイクル、再生可能エネルギー、地球温暖化、気候変動、環境汚染、絶滅危惧種、生物多様性、SDGs…このような言葉が思い浮かばれたのではないでしょうか。

Q2.「俳句とエコロジー」と聞いて、どんなことが思い浮かびますか?
こちらはいかがでしょうか。エコロジーが自然環境のことだとすると、季語、自然、四季…こんなところでしょうか。そもそも俳句とエコロジーは何か関係があるのか?という疑問を持たれた方もいるかもしれません。
今日はまずこの二つの疑問、「エコロジーとは何だろう」ということと、「そのエコロジーと俳句はどのように関わるのだろう」ということを考えてみたいと思います。

◇地球環境 (温暖化) の現在

まず、何故私達がエコロジーのことを考えなくてはいけないかというと、人類が今直面している「地球環境(特に温暖化)」が危機的な状況にあるからです。皆さんもニュースなどで耳にしていると思いますが、改めてどのような状況にあるのかを、レジュメで引用しています。

国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の最新の報告書によると、世界は産業革命前からの気温上昇を一・五度に抑えることを目指しているが、すでに一・一度上昇しており、このままでは今後二十年の間に一・五度を超える可能性が高いという。一・五度に抑えるには、二〇三〇年に世界の二酸化炭素(CO2)排出を現状から半減させる必要がある。報告書は「この十年の我々の選択と行動が、現在と今後数千年に影響する」とした。国連のグテーレス事務総長は「気候の時限爆弾の時計が刻々と進んでいる」と述べた。

(参考 二〇二三年三月二十四日 サイエンスポータル)

ちなみにこの「産業革命前からの気温上昇幅一・五度」というのは二〇一五年の「パリ協定」で立てられた国際目標です。せっかく世界のみんなで目標を立てたのに、それが達成できない可能性が高い。そして「時限爆弾」とはなかなか強烈な言葉ですね。それでも私たちは普通に生活しています。このままでいいのだろうかという漠然とした思いを私はもっていますし、きっと皆さんも同じ思いなのではないかと思います。

◇エコロジーとは何か

エコロジーを直訳すれば「生態学」です。では生態学とは何かと言えば、私なりに変換すると、地球はひとつの家で、生き物たちはその家で一緒に暮らしている家族なんだから、互いに助け合って仲良く暮らしていこうよ、そしてどうしたらそれができるかを考える学問だと思っています。より具体的に、三つの項目に分けて説明したいと思います。

①地球上の生物と生物、生物と環境(海、山、川、空気、土…)、生物と人間の関係を考える学問

誰でも生きていると持ちつ持たれつということがあるように、生き物と生き物などそれぞれがより良い関係を築くことで、全体が幸せになれるのではないかということです。

②地球環境における循環を考える学問

関係があるということは、その間をいろんなエネルギーが循環していくということです。
実は私、今年の二月に知床流氷を観に行ったんです。知床は世界自然遺産になっていて、その豊かな生態系ということがその決め手になったようです。どういうことかというと、初春になるとオホーツク海から流氷が到来します。流氷には植物プランクトンが含まれていて、それが知床の海で溶けて大量発生します。それをエビなどの動物プランクトンが食べる、それをサケやマスが食べる、サケが海から川を遡上する時にヒグマやキツネ、シマフクロウやオオワシが掴まえて食べる。というように海と陸上が一つの生態系として循環しているんですね。また貴重な植物の環境も残されています。知床は生態系、エコロジーということを考え体感するのにとても貴重な場所だと思いました。しかし、最近地球温暖化の影響で流氷の量が年々減っていたり、見られる時期が遅くなっているそうです。これは知床の生態系にとっても危機的なことです。

さて、①生き物同士の良い関係と②良い循環があるのは良い環境、良い生態系ですね。それを実現して行こうよということで、「環境保護」という意味合いがエコロジーに生まれました。

③脱・人間中心主義

これは人の意識の問題です。私達は人間として生まれて今も生きていますので、どうしても人間中心にものごとを考えてしまいますし、自分達が快適に暮らせるように環境を開発してしまいがちです。「わかっちゃいるけどやめられない」ですね。でも、たくさんの生物との関係や自然の循環の中で人間という一生物がいると思うと、人間中心ではなくて、人も動物も植物も命として平等だという気持ちが、「エコロジー」の基礎にあるということです。人間としての欲望をどこかで押しとどめて、エコロジーの考えを導入していくことが、先程言ったような危機的状況における人類の生きる道なのではないかと思います。
その意味で私は「エコ」の反対は「エゴ」でないかと思っています。自分だけ幸せになればいいんだという「エゴ」を超えていこうというのが「エコ」の考え方ではないでしょうか。かといって自分のことを全く考えてはいけないと言っているのではありません。自分とは違う人や生き物と一緒になって幸せに暮らす生態系を模索していくことが大切ではないでしょうか。そんな人間中心ではない俳句として、一句あげてみます。

下萌えぬにんげんそれに従ひぬ  星野立子

季語の「下萌え」は、春になって草の芽が萌え出てくることですね。その草の芽を踏んで歩いている人間は、気付いていないだけで実は下萌えに春の力をもらってそのおかげで生きているんだという句ではないかと思います。

立子のお父さんの高浜虚子はこの句を引用した後に、

畢竟人も草木禽獣魚介の類と共に、宇宙の表れの一つであるに過ぎない。

(高浜虚子「いずれも宇宙の現れの一つ」より)

と言っています。つまり人間が上で草木禽獣魚介が下ではなく、みんな平等に草萌えのような宇宙の表れの一つなんだということですね。この人間中心ではないということが俳句の基本なのではないかと思います。

須賀川にもこの立子と同様に人間とそれ以外が平等、もしくは人間の方が下だという思想で作られた俳句があります。牡丹園のパンフレットに載っている柳沼源太郎(俳号 破籠子)の、

園主より身は芽牡丹の奴かな  破籠子

という句。「人は私のことを牡丹園の園主と呼ぶが、そんなおごり高ぶった気持ちはなく、愛らしい芽牡丹に心から仕えている一人に過ぎない」と解説があります。現在の牡丹園の名声を築き上げた園主の源太郎が俳人でもあったということは、須賀川という地にとって意味深いことだと思っています。

◇高浜虚子の「花鳥諷詠」観

さて、高浜虚子が俳句で大切なこととして言ったのが「花鳥諷詠」です。花や鳥といった自然を題材にしてそれを諷詠するのが俳句なんだということです。その花鳥諷詠について、「循環」ということと共に説明している箇所を引用してみます。

天然の風光が明媚で、また四時の循環が順序良く行われる、その天恵を享受しているこの日本にあっては、祖先伝来の特殊の文芸である花鳥諷詠詩が存在して居るということを忘れてはいけません。

(高浜虚子「俳句への道」二)

今、この言葉を聞くとちょっと現在の実体とは違うんじゃないか?と思われる人もいると思います。温暖化で花が咲く時期がどんどん早くなっていっていますし、長雨や大雨があったり、虚子が生きていた明治から昭和中期とは実感が違いますよね。また「天恵を享受している」という点からすると、もちろん日本は外国に比べ四季が分かりやすいですが、それよりも「古今和歌集」の昔からの四季に心を寄せる日本人の精神性が「天恵」と思わせているふしもあると思います。しかし、確かに俳人の多くはこの虚子がいう「四時」つまり春夏秋冬の四季の循環が順序良く行われることに期待して俳句を詠んでいますよね。そうならば俳人こそ、もっと自然環境の保護に関心を持つべきではないか?などと私は思ってしまいます。もちろん、では具体的にどうすればいいのかというのは難しいのですが、まずは俳句と環境問題は別物だと思わずに、関係するんだという意識が大事なのではないかと思います。

◇俳句の「いま」「ここ」「われ」

さて、私が俳句を始めたころに、上田五千石が書いた、俳句は「いま」「ここ」「われ」を詠むんだという入門書を読んで、とても納得した記憶があります。その文章を引用します。俳句には感動が伴うんだということに続く箇所です。

感動とは「いま」「ここ」に「われ」をゆさぶり、生きて在ることを確認させるものであります。俳句くらい、この感動そのものを端的につかまえようとする詩型はありません。俳句の短さが、生き、生かされるのは、この感動の直接的把握、瞬間的感受にあります。

(上田五千石『俳句に大事な五つのこと』)

今読んでも確かにそうだなと思います。しかし、先程お話した「エコロジー」という観点から考えると、「いま」「ここ」「われ」とは、少し「エゴ」に近いのかなというふうにも感じられます。私は俳句は「いま」「ここ」「われ」を詠むことが大事だし基本だと思います。しかし、特にこれからの時代においては、「いまではない、ここではない、われではない」ものを自分の中に宿しながら、地球の未来や他の生物というエコロジー的な視座を共に持ちながら、目の前の「いま」「ここ」「われ」を詠んでいくことが大切ではないかと考えています。そしてそのような俳句が、「エコロジーの俳句」ではないかと思います。

◇芭蕉に息づくエコロジー

花にあそぶ虻なくらひそ友雀  松尾芭蕉

「な~そ」は禁止の意味なので、雀に対して、虻を食べないでよーと言っています。花に遊ぶといっても、虻も蜜を吸っているんですが。花も虻も雀も、そしてそれを少し離れた所で見ている芭蕉も、「友だち」なんだよ、というエコロジー精神があるのではないでしょうか。

おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉  芭蕉

鵜飼漁をする人、漁に使われる鳥の鵜、鵜に一度呑み込まれて吐き出される魚が登場します。この句は、謡曲の「鵜飼」を下敷きにして作られた俳句とも言われていますが、実際に岐阜県の長良川の鵜飼を見て詠まれています。この句を読んで、現代にも通じる感覚だなあと思ったことがあります。動物園や水族館に行って観ている時は面白いんですが、ふと動物と目があってたまたま寂しげに見えたりすると、檻や水槽を出て大自然の中で伸び伸びと走ったり泳いだりしたいのかなと思うことがあります。もちろん、動物園・水族館の飼育員さんは動物たちができるだけ自然に近い形で生活できるよう苦労なさっていると思いますが。芭蕉のこの句も、鵜舟という面白い見世物が終わってしまった悲しみだけでなく、人間に使われる鵜や、鵜に食われる魚たちの悲しみを感じているのではないか、そんなことを思います。

◇エコロジスト一茶

「エコロジーの俳句」を具体的に考える時に、特にご紹介したい俳人が小林一茶です。フランス人の一茶研究者、マブソン青眼さんが『江戸のエコロジスト一茶』という本を書かれていて、一茶がエコロジーを体現した俳人だったということがよく分かります。私の方で一茶の句を四句挙げてみました。

やせ蛙負けるな一茶これにあり  小林一茶

蛙の世界の競争を人間の一茶が応援しているんですね。蛙界と人間界、それぞれ生き延びるために競争があると思います。一茶は蛙界で弱い立場にいるやせ蛙に共感を寄せています。そして「これにあり」の「これ」は人間の側ですが、蛙の側にもとても近い。蛙界と人間界の境界が無い、その境界を越えていく俳句です。ここには異なる生物が心を通わせて関係していくエコロジーの思想があると思います。

目出度さもちう位也おらが春  一茶

さきほど人間の「エゴ」、欲望という話をしましたが、めでたいことも「中くらい」がいいんだということを教えてくれます。「足るを知る」ですね。際限なく欲望を叶えていったら、その時は良くても、どこかに負荷がかかって、そのうちに身を亡ぼしてしまいます。自分の幸せを中くらいで止めておいて、春のあたたかさにのせて全体の関係性の中に目出度さを循環させておく、そんなイメージが感じられます。

露の世は露の世ながらさりながら  一茶

この句は、一茶が長女さとを亡くした時の句です。この世は露のような儚いもので、人の命も儚いものだとわかっているけれども、それでもあきらめられない。「露の世」「露の世」「ながら」「ながら」という繰り返し表現から、本当につらい、身が引き裂かれるような思いが感じられます。この経験の後、一茶は小動物などを慈しむ句を多く詠むようになったと、マブソンさんは解説しています。この世に生まれてきた「命」というものの重さが、この句を何度も読むうちに感じられてきました。そしてそれは人間に限らず、他の生物、全てに通じる命の重さなんだと思います。

やけ土のほかりほかりや蚤さはぐ  一茶

一茶が晩年に火事にあって家が全焼してしまった時の句です。ふつう、家に住んでいた人間として、途方に暮れますよね。それでも一茶は、その焼け跡に息づいている小動物の蚤の小さな世界をめでています。自分の不幸と他の生物のたくましい営みが同時進行で起こっています。エコロジー的な視点によって、人間の不幸な状況も大きな生態系の中に置いて可笑しみに転換した一茶の精神に、しなやかな強さを感じます。

◇生物、環境、人、地球

ここからは江戸時代以降の俳人に目を向けてみます。

おおかみに蛍が一つ付いていた  金子兜太

蛍にしてみればおおかみは大きな生き物、おおかみにしてみれば蛍は小さな生き物ですね。蛍はおおかみの体の一部にひっついて、まるで命そのもののように光っています。その時、おおかみも蛍も一つの対等な命だということが思い起こされます。

猪が来て空気を食べる春の峠  兜太

よく自然の中で深呼吸をして「空気が美味しいな」なんて言いますね。コロナ禍でマスクが日常になった後はなおさらです。東京暮らしの私にとっても須賀川の空気は美味しいです。都会や工場の排気ガスの中では本当に「空気を食べる」豊かさが貴重です。猪から教えられます。

絶滅のかの狼を連れ歩く  三橋敏雄

この句の狼は絶滅したと言われるニホンオオカミです。生態系を保護して生物多様性を保っていくことは、様々な動植物が季語になっている俳句の精神と重なります。福島県飯舘村で狼の天上画のある山津見神社を見学させていただいたことがあります。そこは狼を神様として祀っていて、天上より、狼から見られているような気がする場所でした。この句も、人間活動の影響もあって絶滅した狼のたましいを連れ歩くように感じながら共に生きる、エコロジーの俳句だと思います。

暗く暑く大群衆と花火待つ  西東三鬼

この句は、人と人のエコロジーということがあるのではないかということで挙げてみました。花火大会の夜、「暑く」にはむんむんとした熱気もあってちょっと不快な感じもします。見知らぬ人たちと一緒に同じ場所にいるということは中々大変なことです。それでも、美しい花火を待つ大群衆が、意識するしないに関わらず、なんとか良い関係を築いていこうとしている。私はここにエコロジーを見る思いがします。

水の地球すこしはなれて春の月  正木ゆう子

ふつう私たちが地上から春の月を眺めてそれを俳句に詠むときとは違って、地球を飛び出した宇宙空間からの視点で読まれています。こう読まれることで、日常では気付かなかった地球が水の惑星なんだということや、月と一緒に宇宙空間を漂うひとつの宇宙船・地球号という感覚を与えてくれます。潤んだ春の月と水の地球の良い関係性にも、地球を飛び出したエコロジー精神があると思います。

◇大きな時間

「いま」に、過去や未来やもっと大きな時間が詰め込まれた俳句を紹介します。

なつかしや未生以前の青嵐  寺田寅彦

夏目漱石の弟子で物理学者でもあった寺田寅彦の俳句です。「いま」「ここ」の青嵐を感じて、「なつかしい」「自分が生まれる前に吹いていた青嵐と同じだ」と感じたということでしょう。とても変わった感覚ですが、例えば、自分のご先祖さまも同じ感覚だったのかななどと思うと、自分が生きる現在が過去と繋がっているような気がします。

わが墓を止り木とせよ春の鳥  中村苑子

この句を詠んだ時、作者の中村苑子はもちろん生きていました。しかし、自分の死後のことを想像しています。想像して、春の鳥に自分の墓を使っていいよと言っています。自分が死んでもこの世界は続いていく、地球や生物たちは生きていくし、次世代の人類も生きていく、そういう「われ」なき後の世界への愛を感じる俳句です。「死んだら終わり」じゃないのです。ここにも心のエコロジーを感じます。

百代の過客しんがりに猫の子も  加藤楸邨

この句は有名な松尾芭蕉のおくの細道の冒頭「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」を踏まえています。先程の高浜虚子が言っていた、草も木も鳥も獣も魚も、芭蕉も楸邨も、様々な事物、時の旅人たちが列をなしている絵をイメージします。そしてその最後尾を小さな仔猫がついて行っている。きっと仔猫の後にも、次にこの世に生まれた生物、旅人たちが続いていくんだと思います。大きな時の流れの循環を感じます。

◇「食物」と俳句

生態系の中では「食物連鎖」がありますが、我々人間も他の生物たちを「食物」として食べて生きています。

鶏毟るべく冬川に出でにけり  飯田龍太

私の田舎の秋田できりたんぽ鍋をやるときに、昔は庭で飼っていた鶏をその日につぶして料理していたという話を祖父母から聞いていました。今はそんな生活も中々なくなったのではないかと思います。その代わり、動物の肉や鳥の卵が生産される現場がブラックボックスになってしまって、動物を殺して命をいただいているという意識が薄くなっていると思います。この飯田龍太の「冬の川」には、命をいただく痛み、荒涼感が表れているのではないかと思います。

秋草の靡くや牛に食はれつつ  鈴木牛後

北海道で酪農を営んでいる鈴木牛後さんの俳句です。牛よりも牛に食われる秋草に眼目が置かれています。人間に乳を提供する牛、牛に食べられる秋草、そんな人と動物と植物の関係性を静かに見つめ、その中に身を置く視座があります。

黄金の波へ乗り出す稲刈機  若井新一

新潟県で農業を営んでいる若井新一さんの俳句です。「黄金の波」が豊作の稔り田を感じさせます。また稲刈機という機械と共に行う田んぼの農家のリアルが感じられます。機械と人間と自然がどのように関わっていくかということもこれからの地球環境にとっては大切な課題だと思います。

◇子どもと俳句

未来の地球を生きる子ども達を詠むことにもエコロジー的な視点があると思います。

曼珠沙華どれも腹出し秩父の子  金子兜太

お腹を出して「腹減ったー」と言いながら遊びまわっているような戦後の子をイメージします。田んぼの畔などに群生する曼珠沙華の噴き出すような赤色が秩父という山国の自然の荒々しさと相まって、この秩父の子には土地の生命力のかたまりのような無垢なエネルギーを感じます。

どの子にも涼しく風の吹く日かな  飯田龍太

龍太のこの句は、自分の子も、他人の子も、皆等しく未来に向けて育っていく存在として、その幸せを願って風を吹かせている感じがします。自分の次の世代への平等であたたかい眼差しを感じます。因みに山梨県の飯田蛇笏、龍太の旧家「山廬」は、龍太のご子息の秀實さんが今も維持管理をして、「俳句の聖地」としての山廬の自然や生活を次世代に伝えています。

眠れない子と月へ吹くしゃぼん玉  神野紗希

私と同世代で、いま俳句界を引っ張ってくださっている神野さんの俳句です。神野さんは一児の母でもあります。この句は、親が上で子が下という上から目線の構図ではなくて、眠れない子の隣で、親である作者が共に同じ月へ向ってシャボン玉を吹いているという感じです。子どもを子ども扱いせずに、一緒になって未来を作っていこうとする姿勢が感じられます。

◇震災と俳句

鴨引くや十万年は三日月湖  永瀬十悟

十二年前の大震災をきっかけに生まれた俳句にもエコロジー精神を感じます。永瀬さんのこの句は、放射性物質が無害化するのに十万年という時間がかかるという事実をもとに詠まれています。福島の立入禁止区域の形が、川が蛇行してそこだけ三日月形に取り残された湖である三日月湖のように見えます。事故が起こったら十万年先の地球の生物たちに責任を取らなくてはならない原子力発電を、人類はどうしていくべきなのかを考えさせられます。

給水にならぶ草の芽を踏んで  江藤文子

まさに大震災直後の俳句だと思います。災害が起こった時、ライフラインの一つが水です。水は私たちの命を繋いでくれる自然環境です。非常時になるとそのことを思い出しますが、普段からそのありがたみを思いたいですね。江藤さんの「草の芽を踏んで」という足の感覚には、被災時の不安な思いと共に水のありがたみが刻み込まれているのではないかと思います。

沫雪や野性にもどる棄牛の眼  大河原真青

放射能汚染により立入禁止区域に残された飼牛が野性に戻った様が詠まれています。その土地に暮らしていた人たちは、結果的に土地を奪われ、国の電力政策によって棄てられた「棄民」ですが、牛たちも棄てられた「棄牛」なんですね。しかし、その牛たちは、人間をどのような眼で見ているでしょうか。「何で棄てたのか」というのか、それとも「自由になってせいせいした」でしょうか。文明が自然に問われている。そんな状況が季語の沫雪によっても表されているようです。

海の日の沖に傾く小さき松  鈴木光影

二〇一八年、いわき市で開かれている海の俳句大会に参加して、福島の豊間・薄磯海岸に行った時の私の句です。津波で流された沿岸地域がかさ上げされて、そこに松の苗木が植えられていました。松が成長して、将来は防災緑地になります。この松が未来の津波から人の命を救うかもしれません。遠い未来の防災・減災、ここにもエコロジーの心があると思います。因みに、いわき市にある「道山林」(クロマツの暴風・防潮林)は江戸時代に植えられたものですが、これが3・11での津波被害を減災させたことが分かっているそうです。

◇戦争と俳句

あやまちはくりかへします秋の暮  三橋敏雄

戦争は国家と国家、人と人との関係が悪化して起こります。森林が燃やされたり、武器弾薬の使用により温室効果ガスが排出されたりで、地球環境へも大きな悪影響を及ぼしています。三橋敏雄は第二次世界大戦に海軍として出征しています。広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には「過ちは繰返しませぬから」と刻まれていますが、この句はその言葉を逆手にとっています。反語的に、原爆が再び使用される危機が詠まれています。「あやまち」をきちんと過ちとして次世代に繋げていく、平和への努力を循環させていくことの大切さを反語的に感じさせてくれる句です。

The wind is driving clouds / To the war side / So quickly...
戦線へ流るる雲の早さかな
  ウラジスラバ・シモノバ(ウクライナ)
  翻訳監修 マブソン青眼

(二〇二二年三月三十日 東京・中日新聞)

今、戦争のさなかにあるウクライナの俳人が詠んだ俳句です。戦線と雲の早さの取り合せにより、緊迫感が伝わってきます。
ちなみに海外の俳句は約七十カ国二百万人以上に広まっていると言われています。そして海外の俳句は、季語や五七五の韻律が必須ではなく、三行か二行の短い詩としてそれぞれの言語で作られています。日本人だけ、日本語だけでなく、俳句はこれから世界の人々が繋がるツールになる大きな可能性を秘めています。多国籍、多文化、多言語の人々を繋いでいく、これも俳句のエコロジーだと思います。

◇俳句と身体(身体のエコロジー)

詩は「身体的諸機能を開発する装置」である。
ポール・ヴァレリー(1871~1945 フランスの詩人)

(参考 伊藤亜紗『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』)

私たちにとって一番身近な自然とは何だろうと考えたときに、それは自分の身体だと思うんです。自分の肌をじっくりみるとなかなか面白いですし、体の調子も日々変化しています。俳句をやっていると、そんな自分自身の身体の感覚、身体的諸機能が活発になる、開発されるように感じる事が時々あります。自分の体という自然を感じること、そして俳句の言葉にすることでその身体が活性化されること、それも体の中で起こっている一つのエコロジーではないかと思っています。

斧入れて香におどろくや冬木立  与謝蕪村

この句では、冬木立に斧を入れた瞬間に立ち上がる香りが詠まれています。それを自分の身体、嗅覚が感じて驚く。「おどろく」というのは俳句にとって基本です。驚くからこそ、それを言葉にしようと思うわけです。

ピストルがプールの硬き面に響き  山口誓子

競泳のピストルの音を聞く聴覚、プールの水面を見る視覚、それが堅そうだなと感じる触覚、三つの感覚器官が駆使されています。私たちは何となく視覚の場合は視覚だけと、一つしか使っていないように感じるかもしれませんが、同時に複数の感覚器官を使いこの世界を認識しています。頭をまっさらにして身体で自然と向き合うとこのような身体感覚が「開発」されて俳句ができることもあると思います。

鶏頭の十四五本もありぬべし  正岡子規

子規庵で寝たきりの子規が庭に咲いているだろう鶏頭を見るでもなく見て詠んだ句です。「ぬべし」はあるだろう、あるにちがいない、くらいの意味だと思います。きちんとは見られないけど、「十四五本あるにちがいない」、これは視覚に加えて、子規の第六感が働いているのだと思います。俳句をやっていると時々これに似た、第六感のような不確かだけれどもそう思えるという「ぬべし」の感覚が詠まれることがあります。私はこれも俳句によって「身体的諸機能を開発」された結果だと思っています。開発するということは、新鮮な感覚を取り入れて循環させていくことです。

身体も自然である、そして身体感覚を開発して循環させる俳句はエコロジーであるということを感じていただけましたでしょうか。つまり、俳句をやることは身体にいいのではないか。句会に出す句が無いといってストレスを感じてしまうと良くないのですが、身体を意識して俳句に向き合われると、良い循環が出来てくるのではないでしょうか。

◇身体から心へ(俳句と禅)

仏教学者の鈴木大拙が俳句について次のような言葉を残しているので紹介します。

日本人の心の強味は最深の真理を直覚的につかみ、表象を借りてこれをまざまざと現実的に表現するにある。この目的のために俳句は最も妥当な道具である。(略)日本人を知ることは俳句を理解することを意味し、俳句を理解することは禅宗の「悟り」体験と接触することになる。

(鈴木大拙『禅と日本文化』より)

「直覚的につかみ」というのは、身体感覚が開発されるように、世界の本質を捉えるということではないかと思います。「表象を借りてこれをまざまざと現実的に表現」というのは、具体的な景で描写するということだと思います。そして俳句をやることは「悟り」に近い事なんだと言っています。悟りとは頭でどんなに考えてもダメで、体験しないと到達できないそうです。芭蕉の句〈古池や蛙飛びこむ水の音〉で言えば、「古池」が伝統的なものや常識的な世界の見方だとします。その静かで真っ平らな水面に、蛙が飛び込んで音を立て、常識をこわす。そのような新鮮な精神体験を言っているのではないでしょうか。身体と心で感じたことを俳句の言葉にすることは特別な「体験」であり、それこそが、俳句の「心のエコロジー体験」ではないかと思います。

俳句には体験が伴う、ここに俳句の真の価値があると思います。因みに今、AIが作った俳句が話題ですが、生きた身体や感覚を持たないAIには、学習はあっても体験はありません。しいて言えば、AIの俳句を読む人間の側に体験が生じます。体験、体感が伴った言葉こそ俳句ではないでしょうか。
そして、ひとりの人の中での驚きや感動といった体験が基礎となり、めぐりめぐって地球環境への良いアクションに繋がっていくのではないか。そんなふうに思っています。

◇俳句のまち須賀川のエコロジー

本日講演をさせていただいているこの福島県須賀川市も、エコロジー精神の息づいている土地だと私は考えています。芭蕉逗留の地という歴史を継いでいるところ。牡丹園という自然と俳句文化が融合した名所があるところ。そこで行われる牡丹焚火(供養)はその年の牡丹を供養して次の年に美しい花をつける循環を願う行事ですね。また松明あかしも伝統行事として過去から未来へと継いでいきます。こども俳句教室も土地に根付いた俳句文化を次世代へと繋げていきます。須賀川出身の映画監督・円谷英二が生み出したゴジラは水爆実験から生まれた怪獣で、自然破壊と核兵器への警鐘を鳴らしています。またウルトラマンは地球を守るヒーローです。最後に、本日のまとめとして三つの提案です。

①「エコロジー」をより広い意味として捉え直してみる。
②「心のエコロジー」を体験、体感しながら、俳句を詠(読)んでみる。
③俳句×エコロジーで何ができるか、地球環境への行動を考えてみる。

今日の話によって皆さんの中に「俳句とエコロジー」という観点が芽生え、より良い俳句の日常が循環されてゆくと嬉しいです。
ご清聴ありがとうございました。

「コールサック114号」俳句時評より転載

コールサック114号

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