マブソン青眼句集『縄文大河』一句鑑賞と十句選
縄文終期消し忘れたる焚火 マブソン青眼
耳慣れた「575」ではない、「573」。この韻律の句で本書は占められている。
句集あとがきによると、ある日突然、「降りて来た。」
そして「無垢句」と名付けた。
後から気づくと、尾崎放哉や師である金子兜太にも、同様のリズムがあったという。
句集のページを繰り、573のリズムに身を委ねながら、ふと私が想起したのは、次の一句。
三鬼の句の場合、下五が3(ナケリ)・2(ナツ)で分かれ、最後の二音(ナツ)――孤独な少年期の涙が、冷たく鋭く、熱い夏の土に突き刺さる。
マブソン氏の「無垢句」の「下三」も、さらに2・1のリズムに分解できるようだ。
この2・1から成る「下三」が、あたかも縄文の矢じりのように大地に突き刺さり、一句を屹立させているように思われる。
さて掲出句。
理路整然とした「弥生的」な文化や価値観に覆われているようにも思える現代の日本列島であるが、その中で確かに生き残っている、混沌とした「縄文的」なもの。
作者が提唱し、一つの句集を編むことで体現した「無垢句」は、現在におけるその現れの最たるものなのかもしれない。
縄文人が消し忘れた「火」が、いまのマブソン氏の詩魂に宿っている、といっても過言ではないように思われる。
なお作者は、縄文文化を愛した詩人・宗左近の名を冠した宗左近俳句大賞(当時は雪梁舎俳句大賞)を句集『空青すぎて』で受賞している。
宗左近も、自身の一行詩を「中句」と呼んで発表していた。
もしも宗左近が生きていたら、「無垢句」の誕生を喜んだのではないだろうか。