PS.ありがとう 6分の5話
PS.ありがとう
6分の1話
6分の2話
6分の3話
6分の4話
6分の5話
6分の6話(最終話)
「そか、もう単身赴任で話がすすんでるからなあ、とりあえず聞いてみるけど期待しないで。行けたら瑤子は幸せなのかな」
「もちろん、あ、でも無理しなくていいから」
想定外の優しい回答に少し戸惑ったのは確かだ。
「わかった」
祐輔がカレーを口に運ぶ。
わかったは、どれくらいのわかったなのか、聞きたかったがやめた。これ以上祐輔と会話をするのが無駄なような気がした。確実にダメになるのも怖かった。それに今はすっきりした返事はもらえそうにない。自分の気持ちも同時にすっきりしないままの状態が続くだけだ。我慢比べをしているようだ。
次は2人を尾行するか、数ヵ月前まではこんな探偵ごっこみたいなことをするなんて、夢にも思わなかった。夫が浮気をしているとなるとみんなこんなものなのだろうか。
次の日はあまり仕事も手に着かず、相変わらず子供を迎えに行き夕飯を作り風呂に入った。子供たちを寝かせ着け、一人パソコンに向かう。
いつもの不動産サイトを見ているがあまり気持ちが乗らない。祐輔の不倫現場を抑えたからなのか、東京行きがなかなか現実的にならないからなのか。このところ瑤子の気持ちは浮いたり沈んだりしている。
ネットで東京の景色を見ながら便せんを取り出してみた。ペンを持つ。このまま誰かに手紙を書けば東京行きが決まるだろう。もはや便せんの力を疑う余地はない。
ペンを右手に持ちながら、色々なことが頭をよぎる。電子レンジの時のように、思いを込めて手紙をかけば、きっと東京行きは決まるだろう。新幹線に乗っている自分が目に浮かぶ。でも、このまま東京行きが決まってもいいのだろうか、そんな疑念も沸いてくる。祐輔の犯した罪の代償は大きいはずだ。便せんとペンで決めることではない、せめて謝罪の一言くらい言わせて東京行きを決めるべきだ。お互いに傷つくかもしれないが、そこは祐輔との共同作業だ。東京行きだけは便せんを使わずに決めよう。
とりあえず気持ちが変わらないうちにと思い、便せんとボールペンをしまう。
もはや夫はほかの女の男なのか。もう自分は相手にされないのか。虚しさが体を駆け巡る。自分で自分の胸をもんでみた。
「あっ」
思わず声がでる。祐輔も男なら私も女、そんな妙な考えが浮かぶ。まだ本気で見放されたわけではないとは思うが、セックスレスの影は目の前まで迫って来ている気がした。
「先に不倫したのはあなたでしょ」
思いついたままに言葉が出てきた。
私が浮気をしたからと言ってとがめられる?私も女だってことをわからせたい、持て余した体を気持ち良くしてくれる人はきっといるはず。ちょっとだけ自由になってもいいでしょ?瑤子はいてもたってもいられなくなり、出会い系サイトを検索してみた。本当の自分はどこに行ったのだろうと思いながら、キーボードを叩いていた。
思った以上に多くあるものだ。不安定な状態なはずなのに胸が鳴るのがわかる。高鳴った心臓から送り出された血液が体中を駆け巡る。夜中に一人で出会い系サイトを見ているなんて、昔の自分が見たらあきれ返っているだろう。だが今は状況が違う。
“出会い系サイト”
怪しい限りだ。本当にいい人がいるのかね、昔はそう思っていた。女が遊ばれるだけじゃないのか、あるいは男に課金だけさせてサイトのオーナーだけが一人儲けているんじゃないか、そう思っていた。
でも今は違う。便せんがある。便せんさえあれば思うがままだ。
出会い系サイトに自分の年齢や趣味などを入力した。その後に好みの男性のタイプを身長や体型、雰囲気などの色々な選択肢から選んだ。
瑤子は一通り出会い系サイトの入力を終えると、さっきしまった便せんとペンを取り出した。最後の便せんだ、思わず深呼吸をする。
“レイナちゃんママ、この前は協力ありがとう。しっかり証拠写真撮れたわ。これをネタに東京行きを迫るつもりよ。それとね、レイナちゃんママがいつも言うように、こんなことになっても離婚だけはせんから、安心して。東京行きが決まったら報告するから、その時はパーッと楽しもうね。PS.ありがとう”
手紙を書き終えてペンを置く。なかなかのできだ。こんなので思ったことが叶うなら安いもんだ。ペンを置くと同時にパソコンの画面が切り替わった。
“あなたの条件に合った男性候補をご紹介いたします”
条件に合った男性は3名しかいなかった。かなり横柄な条件を入れたからこんな感じだろうとは思った。1人目の紹介画像が突然現れた。紹介画像の中で、太めの男性が笑っていた。
太めだが二重の目がかわいいと思った。でもこの男性に私は抱かれるのか、一気に不安がよぎる。
玄関のチャイムが鳴ったので、瑤子は慌ててパソコンを閉じた。祐輔が帰ってきた。
「ただいまー」
「お帰り、今、晩御飯準備するね」
今日は食べて帰る連絡はなかった。
「ああ、疲れたー」
スーツの上着を脱ぎながら祐輔が大きく息をついた。東京行きの準備で忙しいのか、浮気で忙しいのか。スーツを鼻に当ててみたが、クリーニングから戻ってきたままの匂いのままで、怪しい香水の香りはしなかった。疑いすぎか?スーツの向こう側で祐輔が高笑いしている気がした。
鮭の塩焼きとご飯、みそ汁を温めなおしてテーブルに置く。冷蔵庫からタコと昆布の酢の物を取り出した。時間が遅いからこれくらいで満足だろう。
祐輔は出張以外は外泊をしない分、100パーセントではないが安心感がある。出張が隠れ蓑だとしても、それ以外の時間に家に帰ってきていると思うと自然に心は元気になる。
缶ビールの蓋をあけて祐輔のグラスに注ぐ。瑤子はついでに自分のグラスにも注いだ。
「来週の土曜日なんだけど」
祐輔が話しかけてきた。目を合わさないようにしているのがわかった。カレンダーを見る。その日は瑤子の誕生日だった。期待と不安が瑤子の心を渦巻く。よどんだ気持ちはここ最近晴れない。
「来週の土曜日って、7月1日よね」
「そうなんだ、30日から出張で、その日は東京で色々準備しなくちゃいけなくてさ」
「だって土曜日なのに、それに何の日かわかってる?」
「わかってる。瑤子さんの誕生日。ごめん。それは別の日にゴージャスになにかするからさ。今回だけだよ、こういうのは。もう異動まで日もないからさ、俺も仕方ないっていうか、そんな感じだよ」
口では謝っているが本心はどこにいるのか。いつもは呼び捨てのくせにこういうときだけ名前に”さん”付けして、しかもゴージャスじゃなくていいし。余計に腹が立った。だがここは怒ったら負けだ。
「そう、まあ仕方ないね。誕生日の分、お土産はずんでよ」
「仕事で行くからなあ、まあそういう時間があればね」
どこまで本当なのかわからない。
「祐輔、最初は単身赴任かもしれなけど、仕事頑張って私たちも東京に呼んでくれる?」
思い切っていってみた。これでいい返事がなければ現場を抑えた画像を見せようと思った。今日が勝負の日になってもいい。腹が決まった。
祐輔が黙ってご飯を口に運んでいる。果たしてこれが会話と言えるのだろうか。
「瑤子がその方が幸せって言うんなら、それも考えるさ」
祐輔がご飯を口に頬張りながら瑤子を眺めている。どことなく笑っているようだ。何を考えているのかこの男は。本気なのか?
「ほんとに?わーうれしいわ。お願いだからそうしてね」
自分が一番と思える甘い声を出してみた。とりあえず祐輔の話に合わせてみた。言質は押さえておこうと思ったからだ。
頑として否定されないから、こちらも踏ん切りがつかないじゃないか。こんな感じだとまだ証拠の映像は見せられない。果たして勝負はつくのだろうか。虚しさだけを引き連る毎日はそろそろ終わりにしたかった。
次の日は平日だったが、瑤子が勤めている会社の創立記念日で仕事がやすみだったため、レイナちゃんママと2人でランチを取ることにした。レイナちゃんママはシフト制で休みだったからちょうどよかった。会うとすぐに手紙を渡す。この手紙には、自分のおそらく最後になるであろう”男”との出会いがしたためられている。絶対に外せない。
「ママこれちゃんと読んでな。あとさ、色々情報をくれてありがとう。事実を知ってるのと知らないのとじゃ全然違うから、ありがたいよ」
さりげなく手紙のことも伝えた。
「そう言ってくれてよかったわ。最初は旦那さんがうちの店に来ていること言おうかどうか迷ったんやけど、私も離婚を経験してるからね、絶対に伝えないとッて思って、言ってだめならそれでもいいかと思ってな」
レイナちゃんママは感謝されたことに嬉しそうだ。
「勇気を出して言ってくれてよかったよ。感謝しとるよ」
レイナちゃんママはボンゴレを、瑤子はグラタンをオーダーした。
「これ食べへん?ここのおすすめシラスピザ。大きいの頼んでいっしょに食べへん?」
メニューの写真を見るだけで美味しそうだ。
「わあ、おいしそう。たべよたべよ」
心が弾む。
「あとな、ここのシャンパン美味しいんやけど、飲んでみらん?」
レイナちゃんママの目が輝いている。
「ええよ、美羽のお迎えまで何もないから、一杯くらいなら」
お互いに顔を見合わせて笑った。レイナちゃんママと会話をして久しぶりに笑った気がした。レイナちゃんママといっしょにいるとなんだか何かの共同体の同志になったような気がする。まだ何も変わっていないというのに。
シャンパンが運ばれてきた。シャンパンの中を細かい泡が、まるで何かを主張するように黄金色の液体の中を上昇している。そんなきらめく光に瑤子は希望を感じた。
「何に乾杯しようか」
瑤子の気持ちを悟ったのか、レイナちゃんママがグラスを片手に笑った。
「何がいいかな」と瑤子。
「じゃあ私たちの未来に」とレイナちゃんママがすかさず答えた。
「わあ、うれしい。私たちの未来に」
明るい未来がくるといいなあ。レイナちゃんママの優しさが身に染みる。カチンというグラスが合わさる音と、グラスの向こうのレイナちゃんママの笑顔は一生忘れないだろうと思った。
窓の外の太陽の光とシャンパンの中で輝く泡に、すべてをゆだねたい気分だ。レイナちゃんママと知り合えてよかった。ほんの少しの時間だけど、一緒にいるだけで幸せな気分を味わえる。
「東京に行って何がしたいん」
シャンパングラスを置きながらレイナちゃんママが聞いてきた。ここまで東京にこだわる理由が知りたいのだろう。もし自分がレイナちゃんママの立場だったとしても同じ疑問を持つだろう。東京にこだわるのは東京に行ったことがない若者か、よほど東京という街に縁がある人に決まっている。
幼い頃は都会に住みたいと思ったことがない。コンクリートの壁に囲まれた都会の無機質感と、冷たい人がたくさんいそうで嫌だった。
ちょっと歩けば小川のせせらぎが聞こえてくるような田舎の町で育った瑤子は、季節の匂いと太陽の光の優しさを知っている。川を覗くと驚いて散っていく魚を見るのも楽しかった。自宅の裏でキツネが走り回っているのを見たこともある。だから、大人になってもずっと植物の緑や山の傾斜、鳥の鳴き声の中で生きていくのだろう、迷わずにそう思っていた。
小学6年生くらいだっただろうか、その気持ちが少し変化したのは。同じクラスの友人が夏休みに東京に旅行で行ってきたと聞いて、なぜかうらやましかった。東京と言えば東京タワーしか思い浮かばなかったが、あのオレンジ色の日本の象徴のような建造物に上ったと聞いて少しショックだったことを覚えている。その話を聞いて、行ってみたい場所が東京になった。
大人になるにつれて、田舎の人付き合いの喧騒が嫌になって、人とはあまりかかわりのない世界に飛び込んでいきたいという気持ちが強くなった。自分のことを誰もが知らない世界イコール東京だった。
そんな自分が今、大阪という縁もゆかりもない土地に来て、人にありがとうって手紙をだしているから驚きだ。どういうめぐりあわせなのか。祖父と祖母が聞いたら笑うだろう。
「東京に行っても特にしたいことはないかな。でもなあ、地方育ちの私にとっては憧れの地やんか。地方にいるとな心の中にどこか、日本じゃないどこかにいる気がするんよ。東京にいると世間で起きていること全てが自分事みたいで、刺激的なんよね。それが地方の事件だとしても。不思議なもんやけど。他にそういう人いると思うんやけど」
「私にはわからん世界や。でもそういう人ほかにもいるん?」
「いると思うで、知らんけど」
「知らんけど?ハハハ、それ言いたいだけやろ」
レイナちゃんママが笑いながら突っ込んだ。こんな瞬間がとてもうれしい。いつもレイナちゃんママと一緒にいてこういう瞬間を共有できている子供をうらやましく思った。そんなことをまじめに思うなんてきっと自分も変わってる。レイナちゃんママが他のママと話しているのをあまり見たことがないから、この状況はとても得している気分だ。レイナちゃんママにはどんな出会いがあったのだろうと思った。
「レイナちゃんママはご主人とは連絡とってるん?あ、もと旦那ね」
「会わんよ。会いたくないわ、あんな人。浮気して他の女と一緒になって、うちの子の養育費も支払いがあったの最初の2回だけやで。もうあきれて言葉もでえへんよ。でも、もうあきらめてるからいいんやけどな。自分の体が動くうちは自分で稼ぐ、旦那が出て行ってからそう決めたんよ。だって子供のためやからね。最初は私一人で大丈夫やって思ってたわ。でもそれだけやないってことが、あとでわかった」
色々なことがあったんだろうなあ、と思った。自分のことでもせいいっぱいなのに、うちのことまで心配してくれていると思うと胸が熱くなる。
「今はなんとか生活はできるけどな、お父さんがいないことで色々あんねんで。いじめまではないけど、子供が可哀そうなことは目白押しや。だから絶対お父さんはいた方がいいし、そのために頑張ってほしいんよ。その場の感情で選んだら負けやで、子供と一緒に負ける。別れるのは簡単やから。本当は別れたくても、いっしょにいるのを我慢しても、いっときやと思う」
レイナちゃんママは離婚したことをとても後悔しているようだった。きっと何も言えずに別れてしまったのだろう。子供を抱きながら泣いているレイナちゃんママの姿を思い浮かべた。胸が締め付けられる。自分は絶対にそんなことにはなりたくない。だから祐輔のことを責めたらだめだ。白状させて東京行きが手に入ればそれでいい。
今は祐輔には気を使いながら伺いをたてて、本当のことを言えずに時間だけが過ぎている。小さな望みをかなえるためにこれだけの労力を要するのか。そう思うと将来どれだけのことを耐えながら生きていかないといけないのか。でも、別れたら終わり、いくら祐輔のことが許せない事態になっても、それだけは通そう。
「シラスピザです」
ウェイターがそっと大皿を二人の前に置いた。薄い生地の上にシラスがちりばめられている、この店特製ピザだ。
ふわっと魚介類のいい匂いが漂った。
「おいしそー」
2人でピザをシェアしたらそれだけでお腹いっぱいになった。体が満足しているのはレイナちゃんママの話のせいでもある。
「あー、グラタン入るかなあ」
「大丈夫、美羽ちゃんママならいけるよ」
レイナちゃんママの笑顔が、すーっと肌を通ってくる化粧水みたいに心に染みわたった。
シャンパンだけでも2人の話は尽きなかった。
食事を終えて店を出ると大粒の雨が気持ちいいくらいに地面を叩いていた。雨で景色が曇っている。
「もうちょっといよか」
レイナちゃんママがいそいそと元いた席に戻る。
「雨降ってるからもうちょっといさせてな。アイスコーヒー二つ頼むからええやろ」
レイナちゃんママのオーダーに、店員が笑いながらタブレットを叩いていた。
「私な、美羽ちゃんママがうらやましいねん」
レイナちゃんママがそう言って、真剣な目で瑤子を見つめる。
「なんで私なんか、ただの事務員兼主婦よ。それに浮気をする夫を持っている」
「あはは、いいよ、それが楽しいやん。それでもなたくましく生きようとしてる。わたしでけへんかったわ。夫の浮気を知って、いつも泣いてばかり、あの時に私の人生は終わったって思った」
「大丈夫よ、レイナちゃんママは今レイナちゃんと強く生きてるやん。私はいつも強いなーって思って見てるんよ」
それを聞いて、レイナちゃんママはにこっと笑った。やはり褒められるとうれしいのだろう。
「それとな、レイナちゃんママと話しているとな、旦那のことなんか忘れてしまうっていうか、何とかなるって思えるんよね。元気をもらえるっていうの?そんな感じかな、いつもありがとね」
瑤子は普段思っていることを正直に話した。
「何言ってん、私もよ。私あんまりママ友と話ができへんけど、美羽ちゃんママだけはなんか話せるんや。たぶん美羽ちゃんママがきれいだからやと思う」
「何言ってん」
お互い、大声で笑った。隣の席の老夫婦がうるさそうに見ていたので、それ以降は少し小声になった。
小一時間ほど話したら、雨が小降りになった。
「そろそろいこか」
瑤子から声をかける。
「そうね、楽しかったわ。また誘ってな」
「もちろんや、東京行くまでにまた会おう」
不思議な連帯感が生まれた気がした。
まだ小雨が降っていたので速足で歩いた。瑤子はいったん家に帰ってベランダの洗濯ものをしまおうと思った。レイナちゃんママと別れ、急ぎ足で自宅に向かう。
しばらく歩くと腕を打つくらいに雨が激しくなったので、あわてて道路わきの書店の軒下にすべりこんだ。すでに先客がいて雨が止むのを待っている。男性のようだ、少し間をあけて並んだ。本をかかえているから、今書店から出てきたのだろうか。
「ひどい雨ですね」
「えっつ?」
声をかけてきたその男性の顔を見て瑤子は思わず声を上げた。
PS.ありがとう 6分の6話へつづく