PS.ありがとう 6分の6話 最終話
PS.ありがとう
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6分の6話(最終話)
「そうね、楽しかったわ。また誘ってな」
「もちろんや、東京行くまでにまた会おう」
不思議な連帯感が生まれた気がした。
まだ小雨が降っていたので速足で歩いた。瑤子はいったん家に帰ってベランダの洗濯ものをしまおうと思った。レイナちゃんママと別れ、急ぎ足で自宅に向かう。
しばらく歩くと腕を打つくらいに雨が激しくなったので、あわてて道路わきの書店の軒下にすべりこんだ。すでに先客がいて雨が止むのを待っている。背の高い男性だ。目を合わさないように、少し間をあけて並んだ。本をかかえているから、今書店から出てきたのだろうか。
「ひどい雨ですね」
「えっつ?」
声をかけてきたその男性の顔を見て瑤子は思わず声を上げた。
「えっ?」
男性も問い返すように言葉を発した。
言葉では言い表せない、いい感じの男性が少し高い位置から瑤子を見下ろした。身長は頭一つ分くらい違う。
凛々しい顔つき、文句のない身長とTシャツから垣間見える筋肉質でやわらかそうな肉体。
驚いたのは、その男性の顔がネットの出会い系サイトで紹介された写真と酷似していたからだ。
写真より痩せている。ネットの写真の男性は明らかに肥満気味だと感じたから紹介されても断ろうと思っていた。
男性から香ってくるほのかな石鹸の香りに瑤子は心地良くなった。この人なら抱かれてもいいか。すっかり夫への恨み節が体に染みついてきているようだ。少し前までとは違った自分がここにいる。
女として生きている感覚を味わったのはどれくらいぶりだろう。最近は祐輔の浮気と東京行きのことばかりが頭を埋め尽くしていて、すっかり自分の身なりのことなどを考える余裕がなくなっていた。
振り返りガラス窓の自分を覗き見てみる。ガラスが曇っているのか自分が老化したのか、前に見た時とはかなり違っていた。きちんと鏡と向かい合ったのはいつぶりだろう。毎日見ているはずの顔が思い浮かばなかった。
「すみません、ちょっと知っている人に似ていたもので」
瑤子は男性が放つ香りに包まれ、溶けそうになりながら精いっぱいの言い訳をした。
「いいんです、少し驚きましたが」
20代後半くらいだろうか、見えている肌のハリが目を引く。
「本降りになりましたね」
男性が空を見上げながら目を細めた。爽やかという表現は、この目のためにあるのだと思った。
「ええ、これだとしばらくは帰れませんね」
「あのー実は」
と言いながら男性は肩にかけたトートバッグから傘を取り出した。
「これ使ってください。僕のうちはすぐそこなので走って帰れば大丈夫です」
そう言って瑤子の手にそっと折り畳み傘を握らせた。やはり書店から出てきたばかりだったのだ。
「いや、そういうわけには」
受け取らないで、と思いながらも傘を押し返す。
「いいんですよ、使って」
差し出した手に触れた瞬間、肩の力が抜けた。瑤子の胸の中が男性の笑顔で充満する。
男性がパーカーのフードを頭にかけた。
「あの、お名前、聞いてもいいですか?」
声がかすれる。
「成田雄二、あなたは?」
「宮口瑤子といいます」
思わず頭を下げていた。
「商談の挨拶みたい」
成田がそう言うと、うれしさと楽しさが同時に沸き上がってきて、気が付いたら2人とも大きな声で笑っていた。
「じゃあ、僕、用事があるんで先に失礼します」
「はい、傘は今度お返ししますね」
といいつつ、どうやって返せばいいのかもわからない。白い雨の中を走っていく大きな背中を見ながら瑤子は不思議な幸せを感じていた。
傘の取っ手のところにネームプレートのようなものが取り付けてあった。
「この傘を拾った方はこちらに連絡をお願いします。成田。携帯:080‐****‐****」
連絡先が記載されているのを見て、瑤子はまた笑顔になった。
次の日瑤子は仕事の合間に、傘に書いてある番号に電話をしてみた。電話はすぐにつながった。
「あの成田さん?」
「この声は宮口さんですか」
「そう、傘を返そうと思って」
「そんな、いつでもいいのに」
「だって、電話番号を書いてるってことは大切な傘なんでしょ」
なんだか脅しているようだ。
「まあ、お気に入りですけど」
「じゃあ、今日返します。あの本屋の近くに緑色の看板のカフェあるでしょ、そこに来れますか?」
「はい、時間は合わせられます」
「じゃあ三時半は?」
「大丈夫です」
「じゃあお店の中で待ってるわね」
昨日初めて出会ったのに、ずいぶん前から知り合いだったような気がする。瑤子の方が年上に違いないだろうから、どうしても上から目線になってしまうが、それがいいような気がした。
成田雄二は時間通りにやってきた。瑤子の顔を見るなり頭を下げた姿を見て、瑤子は胸がきゅっと締め付けられた。かわいい、男性に対してこんな感情を抱くのは久しぶりだ。
2人でアイスコーヒーを飲みながら色々な話をした。年齢は28歳、瑤子より7歳下だ。彼女とは1年前に別れて今はフリーだということ、自宅でライターの仕事をしているから、割と自由に時間が取れることがわかった。そして年上の女性が好みだということも。
瑤子はひと勝負しようと思った。来週末は自分の誕生日だ、おまけに祐輔は東京出張でいない。きっとあの女も一緒に行くだろう。だから不倫旅行だ。目には目を、とはよく言ったものだ、不倫には不倫をしてなにが悪い。真っ黒な思惑が瑤子の胸の内で爆発しそうなくらい大きくなっていた。
「来週末私の誕生日なの、わたし1人だから祝ってくれるとうれしいな」
年上好きの坊やがこの誘いを断るわけがないと思った。
「あの、結婚されているんじゃないんですか」
「それとは別。いいのあなたはそんな心配しなくて。どうする?会ってくれる?」
前のめりになる。
「誕生日?何か欲しいものありますか?」
「んー特には。成田さんの時間だけもらえれば」
「僕の?時間?」
「そう、あなたの、時間」
瑤子はいつの間にか正面に座っている雄二の手に両手を重ねていた。
視線が絡み合うとはこのことだろうか。目があったまま雄二は放心状態のようだ。瑤子はウインクして見せた。
「あっ」
瑤子のウインクに雄二が思わず声をもらす。
「会ってくれるよね」
瑤子が上目遣いに雄二を見つめる。手をぎゅっと握ってみた。
「は、はい」
「じゃあ決まりね。7月1日夕方4時にここで」
今度はにらむように見た。
「は、はい」
「夜中まで」
「は、はい?」
そう言って雄二は頬を赤く染めた。決まった、と瑤子は思った。
カフェを出るとき、瑤子は雄二の腕に腕を絡めてみた。何も言わない。シャツを引っ張る、それでも何も言わない。雄二はどこまでも従順だった。
「明日からよね、東京出張」
出張前日の夜、夕飯を口に運んでいる祐輔に背後から声をかけた。
「そうだよ」
祐輔がテレビを見ながら返事をする。
「いつ帰ってくるの?」
分かってはいたがとりあえず確認する。
「7月2日。1日は瑤子さんの誕生日。だよね」
いちいち瑤子さんとさん付けされるのが鼻につくが、もういいと思っていた。
「でもいない、だよね」
「まあひねくれなさんな、愛があればいいだろ」
テレビを見ながら言うから余計に腹がたつ。その愛はどこに向かっているのか。聞こうと思ったが自分の計画もダメになるのを警戒して黙っていた。
「去年の誕生日はみんなで外食して、バッグも買ってくれたし。今年は何がもらえるのかな」
わざと嫌味だとわかるように言ってみた。
「なんだそんな心配してるのか。帰ってきたら思い切り埋め合わせするよ。去年よりもすごいやつ」
テレビから目を離さないつもりだ。わざとやっているようにも見える。
「まあ期待しないで待っとくわ」
そう言うと、祐輔がはしをとめて振り向いた。一瞬目が合った。何か言おうとしているようにも見えたが、祐輔はすぐに画面に視線を戻した。自分がとても嫌なことを言っているのはわかるが、これくらいは言ってもいいだろう。
祐輔が東京に行っている間、自分は成田雄二と会う、何が起きるのかはわからない。気持ちは晴らしたい。
祐輔が帰宅したらすぐに東京行きを打診しよう、それが最後だ。その時にあのレストランで撮った浮気現場の映像を見せて、東京行きを認めさせる。祐輔のお遊びはそこでジ・エンドだ。
いや、その後、また復活するかもしれないが、そんなことは後で心配すればいい。とりあえず東京行きの切符を手にいれることが先決だ。
成田雄二、どことなく若い時の祐輔みたいな雰囲気だと思った。人の好みはそう簡単に変えられるものではないのかもしれない。
何となく気持ちが落ち着き、その日は久しぶりに深い眠りについた。
人が自然に呼吸をしているように、祐輔の出発はいたって自然だった。
「いってらっしゃい、誕生日に祐輔がいなくて寂しいけど、帰ってきたらサービスしてもらうからね」
「もちのろんよ」
相変わらずジョークが古い。
「バッグ以上のものを期待しているからね」
「りょーかい」
敬礼の恰好をして祐輔が笑った。その姿を見て瑤子の心がざわついた。本当はこの瞬間が一番幸せなはずなのに、後ろめたい気持ちに目の前の幸せをひとつ失っている気がした。
「じゃあ存分に楽しんできてね」
「うん、じゃあいってきます」
その日は仕事中も成田雄二のことで頭がいっぱいだった。
誕生日の目覚めは良かった。瑤子は36歳になった、成田雄二とは8歳差になる。
洗面所で鏡に向かう。目じりのしわが昨日より増えている気がする。指で修正する。すぐに元に戻った。思わず噴き出した。
「おばさんになったなあ、こんなんでいいのかい?雄二君」
独りごちてみた。
いよいよ勝負だ。成田雄二と楽しんだ先に祐輔との戦いが待っている。これで東京行きを決める。成田雄二には多少申し訳ないとも思うが、きっと1回きりだ。関係を続ける気はないし、ただの気晴らしだ。お互いその方がいいような気がした。
瑤子は待ち合わせ時間の10分前には店に入った。
祐輔がこの時間あの女といっしょに東京の旅を楽しんでいると思うと胃液が逆流しそうだった。
カフェの窓から外を眺めていると、歩いてきた雄二が瑤子に気が付き窓の外から手を振った。瑤子も振り返す。すっかり恋人気分だ。
しばらくコーヒーを飲みながら話をした。
雄二は幼いころに父を亡くし、ずっと母子家庭だということを教えてくれた。母親は中小企業の事務をし、雄二はライターとして仕事をしている、父が残した持ち家で二人で暮らすには十分な収入だということも。
そして、最近母親が新しい父親と名乗る人物を連れてきたことも。
「いいじゃん、新しいお父さんができて」
「それがそうでもないんです。顔を合わせても挨拶もそこそこで、なんていうか、母親が無理やり連れてきた高校生みたいで」
思わず笑いそうになったが、雄二がまじめな顔をしていたので我慢した。
「そうなんだ、じゃあ弟ができたみたいでいいんじゃない」
「そう思えれば楽なんですけどね、母親とハグしているところなんか見ると、なんか複雑で」
困ったような顔で雄二が愚痴る。困ったような顔もかわいい。
かわいいだなんて、雄二はそんなふうに思われているなんて一ミリも思っていないだろう。雄二の話がすすむほど、瑤子の頭の中は遠くを周回しているような気がする。
「雄二さん、シャンパンが美味しいお店があるからそっちにいどうしませんか」
「ああ、シャンパン、飲みたいです」
2人して店を移動した。レイナちゃんママから教えてもらった店に行くためだ。移動中に祐輔から電話が入っていたが無視をした。これくらいはいいだろう、どうせ彼も女と一緒だ。
シャンパンとシラスピザが出てくると、雄二が驚いたような顔をした。
「おいしそう」
その様子を見て瑤子の胸がきゅっと締まる。
「あ、あのー誕生日おめでとうございます」
グラスのシャンパンがなくなると同時に雄二が大きな紙袋をテーブルの横から手渡した。バッグとは違う荷物を持っていたから、もしかして、と思っていたがやはりそうだった。
「まあうれしい、開けていい?」
「もちろん」
袋を開けるとコーチのバッグが顔を出した。
「わあ」
瑤子は「思わず大声を出した。
「そんなに喜んでもらえて」
驚いたのは、去年、祐輔がプレゼントしてくれたバッグの色違いだったからだ。やはり祐輔と似ている、どこまで似ているのだろう。根拠のない不安が灰色になって心の中で広がっていた。
レストランを出て歩いている間、2人は手を繋いで歩いた。男の人と手を繋ぐのも久しぶりだった。雄二の体に腕を回す。
「場所変えましょう」
瑤子が思い切って誘ってみた。ここで場所を変えるというのは大人の関係を持つことを意味している。
「あの、お子さんは」
「知り合いのお母さんに預けてるし、終電の時間位に引き取りに行くっていってるから、その時間までなら大丈夫よ」
ホテルの受付でまた祐輔から電話が入った。思い切って出てみたが同時に切れた。折り返しはしなかった。
部屋に入ると瑤子は先にシャワーを浴びた。胸を自分で触る。乳首が元気よく顔を上げた。石鹸を泡立てて体の色々な部分を触る。体中が思いっきり反応している。結婚して初めて主人以外の男の人と過ごす2人きりの怪しい時間。自分はこのまま雄二に抱かれるのだろう。いや成り行きから言うと、自分が抱かせるのだ。
バスタオル一枚を巻いてベッドに入る。
「じゃあ僕もシャワーを浴びてきます」
「どうぞ」
心臓が飛び出しそうになるくらいときめいている。ベッドの壁に背を預けながらスマホをバッグから取り出し手に取る。
手に取った瞬間電話がなった。思わずタップした。
「おーい、瑤子」
まずいラインのテレビ電話を取ってしまった。ちょっと待って、すぐに背景を森にした。
「いいところにいるねー緑の中を散歩中か」
気ままに冗談めかす祐輔にいら立ちながらも相手にした。
「ああ、祐輔、どうしたの?」
「誕生日おめでとう」
祐輔の後ろにリビングが映り込んだ。しゃれたホテルだな、そこに女もいるのか。そう思った瞬間、女性が顔を出した。
「奥様ですか?初めまして、経営企画室の田沼みどりと申します、そしてこちらが同じ企画室の鎌田敏夫です」
あの女だった。レストランで祐輔と一緒にいた女だ。なんと忌々しい、平気で顔を出して、これで私の夫を奪い取ったつもり?一気に怒りがこみ上げる。でもどうしてもう一人男の人がいるのか。
「初めまして」
気持ちとは裏腹な言葉しか出てこない。
「瑤子、今まで黙っていたけど、実は東京で部屋を探していたんだ。経営企画室に打診してさ、家族で住める家を探したよ。瑤子が欲しい大きなベランダもあるんだ」
そう言ってカメラを持った祐輔がベランダに移動する。
「わあすごい」
思わず声が出た。何十畳かあるくらいのテラスが映し出された。
「ここで観葉植物でも野菜でもなんでも作れるね。これ、家賃の半分は会社持ちにしてもらった。瑤子への誕生日のプレゼントだよ」
「え?じゃあ」
「奥様、どうぞご主人といっしょに東京へいらしてください」
あの女が横の男性といっしょに頭を下げる。
「そうだったの?」
こんな企てしていたなんて、それを疑った目で見て、私はなんて悪い女。
「どうかしましたー?」
洗面所から雄二の声が聞こえてきた。
「いや、なんでもない」
「いや、だからこれが誕生日のプレゼントだよ、瑤子、待たせて悪かったな、いっしょに東京に帰ろうな」
東京に帰ろうって、祐輔いつの間にそんな粋なこと言えるようになったの?そう思うととてつもない量の涙があふれだしてきた。
「あの、あの」
雄二が洗面所のドアから顔だけ出した。瑤子はすぐに画面に視線を戻す。
頭の中でレストランで撮った映像が渦巻いている。あとで絶対に消去しよう、いや今すぐにだ。
そう思いながらも大量に涙が目からあふれ出してくる。私は、私はなんて悪い女。ごめんね祐輔、信じてあげられなくて。
「ありがとー」
大声で祐輔にお礼を言った。
鼻水と涙で顔がぐちゃぐちゃになっている。瑤子は雄二と祐輔の目も気にせず大声で泣いていた。
PS.ありがとう 了
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