遠望12
「あらあらごめんなさいね。年を取ると時々廻りが見えなくなっちゃうのよね。え〜っと、他に何を話せば良いのかしら?」
由季子が大筒を見ると音のでない拍手をしながら笑っている。
「お聞きしたい事は山ほどあるのですが、一つ一つのお答えが素晴らしくて聞き入ってしまいます。さらに頭の中でそのお答えを反芻して味わってしまってすぐに次の質問が出て来なくて。三宅、姫野、他にお聞きしたいことはないかな?」
「あります」
三宅が手を上げ大筒が「では、よろしく」と言ってお茶を飲んだ。
床に差し込む光が柔らかくなっている事に気づいて時計を見ると十七時になろうとしていた。大筒はロバート夫婦に疲れが見られなければ遅い時間まで質問しようと言っていたが、真っ暗な山道を一時間近く降りていくのはかなり大変なことだ。
「重要な事は大体お聞き出来たと思います。明日は午前中からお邪魔させていただきますので今日はあと一時間ほどお話を伺わせて下さい。真っ暗な山道を機材を担いで降りるのは大変ですので」
大筒が思わず振り返り、窓の外を見てうなずいた。
「この家のことをお聞きしたいです。とても魅力的な家ですが、カモフラージュの為だけにこのようにされたのでしょうか?それとも他に何か意図があったのでしょうか?」
ロバートと由季子が顔を見合わせて微笑んだ。彼らにとって嬉しい質問だったのだろうか。その答えに三宅も大筒も姫野も期待した。
ロバートが姿勢を正し座り直すようにして、
「長らく森の中で暮らしていると、森の声が、精霊の声が聴こえてくることがあります。僕たちは精霊の声に助けられた事があるのです。だから、この家も森そのものにしたかったのです。精霊と一緒に住めるような家にしたかったのです」
撮影スタッフ全員が緊張したのを美貴は全身で感じているようだ。この話しを知っているのだろう、彼女も背筋を伸ばして座り直した。
「康一が四歳の頃です。その頃の私たちの家は三本の立木を利用した家でした。一本の古い大木の前に二本の木が立っていました。上から見ると三角の形ですね。それぞれの木の間は五メートルほどでした。その木の間に板を張り、屋根は前の二本の木から後ろの古い木に向かって斜めにして雨が流れるようにしていました。夏の日です。夕食を終え三人で寝る支度をしていると『別の場所に家を作りなさい』という声が聞こえました。私は由季子さんが言ったのかと思いましたが彼女も『え?』と私を見たのです。君じゃないの?と聞くと彼女も、あなたじゃないの?と。『別の場所に家を作りなさい』って聞こえた?と確認すると、そう聞こえたと。でもその家は僕がこれまでに作ってきた家とは違って立木を利用していましたからかなり頑丈で、強い風がふいても揺れる事がほとんど無くて僕は気に入っていたんです。だからその声はたまたま僕たちが勘違いして聞こえたんだろうと思うようにしました。それから一週間後、お昼ご飯を食べてウトウトしている康一をそのまま家の中で寝かせて僕たちは畑に行きました。畑で仕事をしていると突然大きな声が聞こえてきました。森中に響くような叫び声でした」
「ごくり」と大筒がつばを飲み込む音が聞こえた。カメラマンの二人は仁王立ちで撮影し、音声と照明も硬直したかのように動かない。姫野は強く三宅の腕をつかんでいる。
「その声はこう叫んだのです。『子供を家から出しなさ〜い』と。とっても大きな声でしたから聞き違いなんかじゃありません。私が走り出す前に由季子さんはすでに走っていました。あの時はオリンピックの選手よりも早く走ったと思います。由季子さんを抜いて、歩くと十五分くらいのところを二分くらいで家に着きました。ドアを開けると康一は寝ていました。何も変わった所はありません。すやすや寝ている康一を抱き上げると外から由季子さんが『ロバート、外に出て〜。早く〜』と言いました。すると家が急にギシギシと音を立てて屋根が落ちてきたんです。あわてて外に飛び出た僕に由季子さんが「ロバート走って〜」と叫びました。家を振り向かずに彼女の所へ走ると、後ろからズドドーンという重い音が聞こえてきて地面も震えてきました。沢山のほこりと木の葉が僕を追い抜いていって、由季子さんのところに着いて康一を彼女に渡して振り返ると後ろの古い大木が倒れていました。僕たちは気がついていなかったのですがその木の根本は腐って空洞になっていたんです。あの声は、倒れたあの木の声だったのかも知れません。森全体の声だったのかも知れませんが、とにかく僕たちは森の精霊に助けられたのです。だから精霊たちと一緒になれるような家を作ったのです」
赤い光が部屋に差し込み、外の夕焼けを知らせてくれた。鳥のさえずりも聞こえてきた。大筒は目を閉じている。今の話しを反芻しているのだろう。三宅の腕を強く掴んでいた姫野の手も今は自分の両膝に置かれている。長い沈黙に違和感を感じたのか寝ていたパウラがむっくり起きだした。
お茶を入れる為にワインの瓶を洗いに行っていた康一がいつの間に戻っていたのか父の肩に手を置いた。
「おやじ、百メートルを八秒くらいで走ったのかもね。間違いなく金メダルだね」
肩に置かれた康一の手をさすりながら、
「隠れた世界記録保持者は私だね。本物はいつでも隠れているものなんだよ」
ロバートの言葉に全員が笑い、空気が落ち着いた。姫野が身を乗り出して、
「隠れた世界から出てきて下さってありがとうございます。私、本当に感激しています。自然と一体となる、こんなにステキな生き方があるのかと。この場にいる事が出来て皆さんに感謝です。美貴ちゃん、連れて来てくれてありがとう」
康一が美貴の頭を撫でるとロバートも美貴の頭を撫でた。由季子は笑いながら見ている。
「私も聞いてみたいなぁ。精霊の声。お父さんは聞いた事ある?」
撫でられたまま真っすぐ見つめる美貴に、
康一は「あるよ」と答えた。
「えぇっ、ホントお父さん?どんな声だった?」
思わず後ろの父に体を向けて手を取った。
「ピーマン苦いから嫌い〜とか、お休みの日はどっか連れてって〜、とかね」
掴んでいた父の手を振り払い体を戻して、
「それは私。私の小学校の頃でしょ。もうっ」
「私たちにとって美貴は精霊と同じように大切なんだよ。そういうことを康一は言っているのさ」
ロバートの言葉に由季子が大きくうなずいた。
「自然を大事にされていたから聞こえて来たんでしょうね。神様が三人を守ってくれたのかなと思いながら聞いていました」
姫野が「うんうん」とうなずきながら三宅を見て、ロバートに小さく拍手をしてみせた。
ロバートがお茶を一口飲み、ゆっくりと天井を見上げどこか一点を見つめながら息を吐いた。
「僕は特定の宗教を信じているわけではありません。僕は自然そのものが神だと思っています。木だけではありません。花も、土も、鳥も、風も、一枚の葉っぱも、大切な野菜を食べる虫も神様だと思っています。みんながそこにいないとダメなんです。なにかひとつだけ欠けてもこの世界は生命を保てないのだと思います」
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