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本能寺の変 1582 光秀と信長 3 73 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 3 上洛 

信長は、軍勢を芥川山城に納めた。

 片付いた、との判断である。
 
  御本陣芥川の城へ御人数打ち納れられ、
  五畿内隣国、皆以て御下知に任せらる。
                          (『信長公記』)

義昭も、芥川山城に入った。

 信長と義昭は、同陣した。
 
  二日、戊寅(つちのえとら)、天晴、
  武家以下、芥川に御陣取りと云々、
  近日、御上洛有るべきの由これあり、
  池田・日向守(三好長逸)等降参と云々、

                          (「言継卿記」)

松永久秀は、芥川山城へ向かった。

 久秀にとって、これ以上の幸運はない。  

  二日、
  一、松少(弾正少弼)は、公方へ御礼として、
    今日にて、八幡山まで越され了んぬ、
                          (「多聞院日記」)
 

近隣の諸大名も、続々とやってきた。

 信長と義昭に、忠誠を誓う。
 そこには、池田勝正の姿もあった。 

  四日、庚申、天晴、午時小雨、
  昨日、竹内三位入道・両畠山・松永弾正忠・池田筑後守等、
  武家・織田等に、芥川に於て、御礼申さるゝと云々
                          (「言継卿記」)


          ⇒ 次回へつづく 

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