本能寺の変 1582 信長の甲斐出陣 3 129 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の甲斐出陣 3 信長、出陣
信長は、岐阜から岩村城へ向かった。
三月八日。
信長、犬山城着。
岐阜・犬山間、凡そ四里(16km)。
三月八日、信長公、岐阜より犬山まで御成り、
(『信長公記』)
柴田勝家は、越中松倉城を攻めていた。
以下は、信長が犬山から越中の柴田勝家に送った書状である。
勝家は、上杉勢と戦っていた。
昨日の書状、今日、犬山において披見候、
仍って、その面、一揆等これある両村に押しつめ、成敗仕り候由、
先ず以って、然るべく候、
それに付きて、松倉口に働きの事、油断なきの旨肝心に候、
越後の族、少々罷り出で候由、神保かたより申し越し候、
定めて、北(逃)げ散り候間、釣り留めおくべきの旨、申し遣わし候、
猶々、油断なく相働き、悉(ことごと)く打置くべきの儀、専一に候、
信忠は、勝頼を追っていた。
武田氏に、終末が迫っていた。
吾等事、五日に安土より相立ち、今日、犬山に着陣候、
甲州諏訪の事、四郎は、去月廿八日、彼方居城え逃げ入り、
居所とも自焼仕り候て、山奥へ何方ともなく逃げ失せ候、
先手の者ども、早や甲州に至って打ち出で候、
城介同前に候、
(「古今消息集」「古証文」1/2)
⇒ 次回へつづく
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