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本能寺の変 1582 光秀の苦悩 1 15 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀の苦悩 1 嫡男光慶 

光秀の嫡男は、光慶である。

 本能寺の変は、天正十年六月二日に起きた。
 その、わずか四日前。
 光秀は、愛宕山で連歌会を催した。
 これが、「愛宕百韻」である。
 その中に、光慶の名がある。

明智光秀張行百韻 天正十年五月二十七日。

 発句 ここから、始まる。

  時は今、あめが下なる五月哉、     光秀

 結句 ここで、終わる。

  国々は、猶、長閑(のどか)なる時、    光慶
                          (「続群書類従」)

 なお、これについては後述する。

この時、光慶は、まだ13歳だった。

 今風に言えば、12歳。
 小学6年生である。
 まだ、若い。
 否、若すぎた。

光慶は、ルイス・フロイスの『日本史』に登場する。

 この中に、光慶の年齢が書かれている。
 
 同、六月十三日。
 光秀は、山崎の合戦で秀吉に敗れ、坂本へ向かう途中で亡くなった。
 次の場面は、その後の坂本城の様子である。
 光慶は、明智軍の惨敗と父の最期を知った。

  安土を去った明智の武将は坂本に立て籠ったが、
  そこには明智の婦女子や家族、親族がいた。

  
  次の火曜日には同所へ羽柴の軍勢が到着したが、
  すでに多数の者は城から逃亡していた。

  
  そこでかの武将および他の武将らは、軍勢が接近し、ジュスト右近殿が
  最初に入城した者の先発者であるのを見ると、
  「高山、ここへ参れ、貴公を金持ちにして進ぜよう」と呼びかけ、
  多量の黄金を窓から海(湖)に投げ始めた。

  そしてそれを終えると、貴公らの手に落ちると考えることなかれと
  言いつつ、最高の塔に立て籠り、内部に入ったまま、
  彼らのすべての婦女子を殺害した後、塔に放火し、自分らは切腹した。

  その時、明智の二子が死んだが、非常に上品な子供たちで、
  ヨーロッパの王子を思わせるほどであったと言われ、
  長男は十三歳であった。
                            (『日本史』)

フロイスもまた、歴史の証人である。

 フロイスは、イエズス会の宣教師。
 『日本史』を世に残した。
 西洋人の目から見た、当時の、この国の実態がよくわかる。
 貴重な史料である。
 信長の二つ上。
 同世代である。
 信長は、遥か彼方の異国の地から、怒涛逆巻く、万里の大海を乗り越えて
 やって来た彼らの勇気に感嘆し、尊崇の念を以って、温かく迎えた。
 その親交については、多くの人の知るところである。
 以下、その略歴を示す。

  1532(天文元年)、ポルトガルのリスボンに生まれた。
  1563(永禄六年)、布教のため来日。
  1565(同八年)、入京。
  1568(同十一年)、信長に会う。
  1576(天正四年)、九州に転じる(豊後)。
            後任は、オルガンティーノ。
  1581(同九年)、三月、巡察師ヴァリニャーノとともに、京へ。
           信長と再会、大歓迎を受ける。
           秋、九州へ帰る。
  1582(同十年)、本能寺の変、勃発。
  1583(同十一年)、『日本史』の執筆に着手。
  1597(慶長二年)、未完のまま、長崎にて没(享年65)。

          ⇒ 次回へつづく 


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