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本能寺の変 1582 信長の台頭 5 279 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 5 武田信玄と天沢和尚 

信玄は、信長の「数寄」について尋ねた。

 「興味津々」、である。
 信玄は、再び、問うた。 
 今度は、「数寄」について。
 すなわち、信長の好み。
 特に、風雅・風流等に関して。
 
  其の他、数寄(すき)は何かある、と御尋ね候。

信長は、舞と小歌を好んだ。

 幸若舞と俗謡である。
 
  舞いとこうた(小歌)、数寄にて候、と申し上げ候へば、

これが、信長の生き様である。

 信長は、「敦盛」を好んだ。
 友閑という人物が、これを教えていたという。
 松井友閑のことか。

  幸若大夫、来(き)候か、と仰せられ候間、

  清洲の町人に夕閑(ゆうかん)と申す者、細々(=再々)召しよせ、
  ま(舞)はせられ候。

 特に、この一節が気に入っていた。

  敦盛を、一番より外は、御舞い候はず候。
  人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。
  是れを口付けて、御舞ひ候。
                          (『信長公記』)

    【参照】信長と「敦盛」 8~10 


          ⇒ 次回へつづく


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