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本能寺の変 1582 光秀という男 3 105 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 3 土岐氏 

土岐頼康は、濃・尾・勢、三ヶ国の守護を兼任した。

 頼康は、頼遠の兄頼清の子。
 頼貞の孫にあたる。
 文保二年(1318年)生れ、~元中四年/嘉慶元年(1387年)没す。
 足利尊氏・義詮・義満の時代を生きた。

 興国三年/康永元年(1342年)。
 叔父頼遠の刑死後、美濃守護を継承。
 正平六年/観応二年(1351年)。
 観応の擾乱での活躍により、尾張守護を与えられた。
 その後、伊勢守護を兼任。

頼康は、土岐氏の全盛期を築いた。

 濃・尾・勢は、東西交通の要衝地。
 土岐氏は、これら主要三ヶ国を押さえる守護家となった。

 頼康は、尊氏以来の功臣。
 幕府の重鎮。
 将軍家の信任は篤い。

頼康は、文武両道の人であった。

 頼康は、風雅の道にも秀でていた。
 「新千載和歌集」・「新拾遺和歌集」・「新後拾遺和歌集」など、
 勅撰和歌集にも多くの歌を残している。


          ⇒ 次回へつづく 


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