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本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 5 237 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の甲斐侵攻 5 潮目の変化 

⑦我ながら驚き入る計りに候。

 信長は、瞬く間に、四ヶ国を手に入れた。
 これには、自身も、驚いた。  

  北は越後境、東はうすいが峠・川中島等、信州中に一所も残らず、
  侘言せしめ、落着候、

  西上野、同前に候、
 
  此の如く、卅日・四十日際(きわ)に、一偏に属するの事、
  我ながら驚き入る計りに候、
             (「武家事紀」「織田信長文書の研究」⑦/⑪)

信長は、己の勢威を再認識した。

 織田の武力。
 「これ程までとは」
 圧倒的な強さ。
 「戦わずして勝つ」
 勝頼の首。
 「あの武田ですら」
 最早、この日ノ本に、対抗し得る勢力は存在しない。
 ならば、・・・・・「次」。
 「天下布武」は、目前だった。 

光秀も、驚いた。

 光秀は、洞察力に優れている。
 「これまでとは、違う」
 そう、直感した。
 ならば、・・・・・「早まる」。
 中国出陣は、近い。 

ここで、潮目が変わった。

 ここからである。
 時の流れが、急変した。
 急激に、加速し始めたのである。

 信長自身は、この変化に全く気づいていない。
 光秀は、間もなく、これに翻弄される。

光秀の心の内には、大きな不安が湧き上がった。

 一、土佐の事。
   「それまでに」
   間に合うだろうか。 

   光秀は、石谷頼辰(よりとき)を土佐に派していた。
   長宗我部元親との最終交渉。      
   何としても、聞き容れてもらわねばならなかった。     

 一、中国の事。
   急に、慌ただしくなって来た。
   安芸の毛利。
   これとて、武田に同じ。
   二の舞となるだろう。
   「武田効果」
   さ程、時間はかかるまい。
   ならば、その先は、・・・・・。 

   光秀は、武田の滅びゆく姿をその目で見ている。
   これと毛利を重ね合わせた。
   信長の目線と同じである。   

 これらについては、後述する。

信長は、大いに満足していた。

 すべてが順調。
 うまく行っている。
 そう、確信していた。

 なれど、好事、魔、多し。
 一寸先は、闇。
 人生、何が起きるかわからない。

          ⇒ 次回へつづく



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