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本能寺の変 1582 上総介信長 3 195 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 3 三好長慶の下剋上 

三好長慶が軍勢を率いて上洛した。

 同(天文二十二年)、八月。
 京である。
 三好勢が攻め寄せた。
 その数、二万五千。
 大軍勢である。

  八月大
  一日、乙亥(きのとい)、天晴、巳(み)下刻(11時頃)、雨降る、
  早々より、三好筑前守人数、
  其の外、河内・和泉・大和・摂津・紀伊等人数、二萬五千計(ばか)り、
  上洛と云々、

長慶は、将軍義輝と敵対関係にあった。

 義輝は、船岡山に本陣を構えた。

  武家、辰下刻(9時頃)、御出陣、舟岡に御座候、

 幕府勢は、霊山城に立て籠もった。 

  然るところ、東山霊山御城、松田監物・三寶院衆・山中の磯谷等これを
  持つ、

三好軍が霊山城を攻撃した

 猛攻が始まった。
 寄せ手にも、被害が出た。

  今村紀伊守人数(三好方)、取り懸けこれを責む、
  今村源七以下五、六人討死と云々、
  其の外、十五、六人手負いこれ有りと云々、

幕府軍が敗れた。

 霊山城、落城。 

  但し、松田監物、生害と云々、
  御城、放火しおわんぬ、
  御無念の至りなり、

  其の外、下大宮通りより、
  其の西、又、二通り三手に諸家勢、上りおわんぬ、

義輝は、山中へ逃げた。

 杉坂へ落ちた。

  武家、山中へ御座を移さるゝと云々、
  其の外の人数、山上へこれ引き取り、
  下衆、蓮台野まで罷り向かふ、

細川晴元は、戦わずに、撤退した。

 晴元は、義輝に与していた。

  晴元衆、此方詞(ことば)に相違ひ、一戦に及ばず引きおわんぬ、
               (「言継卿記」天文二十二年八月一日条)


          ⇒ 次回へつづく


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