本能寺の変 1582 信長の台頭 3 268 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 3 桶狭間
信長は、義元を追い詰めた。
午後2時頃。
義元の旗本を発見。
信長は、「東」へ向かって追撃した。
天文廿一年(永禄三年の誤り)、壬子(みずのえね)、五月十九日、
旗本は、是れなり。
是れへ懸かれ、と御下知あり。
未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。
義元の旗本は、次第、次第に、その数を減らしていく。
初めは、三百騎計り、真丸になつて、義元を囲み退きけるが、
二・三度、四・五度、帰し合せ、々々々々、
次第、々々に、無人になりて、
後には、五十騎計りになりたるなり。
義元は、近くにいる。
そう、思ったのだろう。
信長は、馬から下りた。
両軍、入り乱れての混戦がつづく。
信長、下り立つて、若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、
いらつたる(=血気にはやる)若ものども、乱れかゝつて、
しのぎをけづり、鍔(つば)をわり、火花をちらし、火焔をふらす。
然りと雖も、
敵身方の武者、色は相まぎれず(旗指物などの色で識別できた)。
爰にて、御馬廻・御小姓衆、歴々、手負ひ死人員(かず)知れず。
今川義元の最期。
そして、ついに、その時が訪れた。
服部小平太・毛利新介、両名の大手柄である。
義元を発見。
見事、これを討取った。
服部小平太、義元にかゝりあひ、膝の口きられ、倒れ伏す。
毛利新介、義元を伐り臥せ、頸(首)をとる。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく
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