本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 5 239 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の甲斐侵攻 5 潮目の変化
⑩信長の、老臣に対する姿勢である。
路次険難につき、来るに及ばず。
老人に対する配慮である。
爰許(ここもと)見廻り、無用に候、
年寄ども、呼び寄すべきと存じ候へども、
路次険難、老足叶うべからざる儀に候間、罷り越すべからず候、
信長は、光秀を老人扱いしていない。
光秀には、行動力があった。
信長は、「まだまだ、使える」、と思っていた。
その様な年代だった。
事実、中国出陣命令が発せられるのは、この二ヶ月後。
天正十年五月十七日のこと。
光秀に、1000km超の大遠征が連続して命じられる。
相当の体力を要するであろう。
老人には、出来ぬこと。
光秀は、まだ、それが出来る年頃だった。
すなわち、それ程、高齢ではなかった。
【参照】光秀の年齢 131~151
⑪信長は、友閑に、世に喧伝するよう命じた。
「武田効果」
友閑から、京の公家衆へ。
五畿内の諸将へ。
そして、秀吉へ。
それは、瞬時に、諸国の大小名へ伝播した。
「戦わずして勝つ」
恐るべき、信長の戦略である。
これに、抗う者などいない。
此の口の趣、安土へも未だ申し越さず候、
京都・五畿内並に羽柴藤吉郎方迄、残らず相触るべく候、
其の為に具(つぶさ)に染筆候也、
三月七日(十脱) 信長
宮内卿法印
(「武家事紀」「織田信長文書の研究」⑧~⑪/⑪)
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