本能寺の変 1582 上総介信長 1 182 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 1 信秀の死
清洲織田氏、離反。
同、八月十五日。
信秀の死から、五ヶ月後。
今度は、清州勢が攻勢に出た。
「離反」
信長を見限った。
一、八月十五日に、清洲より、坂井大膳・坂井甚介・河尻与一・
織田三位、申し談じ、
松葉の城へ(愛知県海部郡大治町西條南屋敷)、懸け入り、
織田伊賀守、人質を取り、
同松葉の並びに、
一、深田と云ふ所に(愛知県あま市七宝町桂境之橋)、
織田右衛門尉、居城、
是れ又、押し並べて、両城、同前なり。
人質を執り堅め、御敵の色を立てられ侯。
信長は、那古野から萱津へ向かった。
同十六日、明け方。、
信長は、那古野を出陣し、庄内川を渡って萱津へ向かった。
一、織田上総介信長、御年十九の暮八月、此の由をきかせられ、
八月十六日、払暁に、那古野を御立ちなされ、
稲庭地の川端まで、御出勢(愛知県名古屋市中村区稲葉地町)。
守山より、織田孫三郎殿、懸け付けさせられ、
松葉口・三本木口(愛知県海部郡大治町三本木)・清洲口、
三方、手分けを、仰せ付けられ、
いなばぢの川をこし、
上総介、孫三郎殿、一手になり、
海津(萱津)ロヘ、御かかり侯(愛知県あま市上萱津)。
一、清洲より、三十町計り踏み出だし、海津(萱津)と申す村へ移り侯。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく