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本能寺の変 1582 信長の台頭 3 265 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

信長の台頭 3 桶狭間 

運は、天にあり。

 信長は、中島砦から出撃しようとした。
 しかし、家老たちが必死にそれを止めようとする。 
 
  中島より、又御人数出だされ侯。
  今度は、無理にすがり付き、止め申され侯へども、

  爰(ここ)にての御諚には、

 信長は、言った。
 
  各(おのおの)、よく々々承り侯へ。

  あの武者、宵(よい)に兵粮つかひて、夜もすがら来たり。
  大高へ兵粮を入れ、鷲津・丸根にて手を砕き、
  辛労して、つかれたる武者なり。

  こなたは、新手なり。
  
  其の上(かみ)、
  小軍にして、大敵を怖るゝことなかれ。
  運は、天にあり。
  此の語は、知らざるや。

  懸らばひけ、しりぞかば引き付くべし。
  是非に於いて、稠(ね)り倒し、追い崩すべき事、案の内なり。

  分捕(ぶんど)りなすべからず。
  打拾てになすべし。

  軍(いくさ)に勝ちぬれば、
  此の場へ乗りたる(参加した)者は、家の面日、末代の高名たるべし。
  只、励むべし。
 
  と、御諚のところに、
 
 そう、言っているところに、前田利家らが頸を持って現れた。
 
  前田又左衛門・毛利河内・毛利十郎・木下雅楽助(うたのすけ)・
  中川金右衛門・佐久間弥太郎・森小介・安食弥太郎・魚住隼人、
  右の衆、手々に頸を取り、持ち参られ侯。
  右の趣、一々、仰せ聞かせられ、
                          (『信長公記』)

信長は、敵の前衛線の位置をつかんだ。

 となれば、如何にして、そこを突破すべきか。
 信長は、空を見上げた。

          ⇒ 次回へつづく



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