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本能寺の変 1582 斎藤道三の下剋上 1 153 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

斎藤道三の下剋上 1 光秀の少年時代~思春期 

尾張では、織田信秀が勢力を拡大していた。

 天文二年(1533)、七月八日。
 山科言継は、尾張にいた。
 勝幡にて、信秀に会う。
 信長の父である。

 信秀は、津島を支配していた(愛知県津島市)。
 商業地域である。
 「三郎」とは、信秀のこと。

  八日、己酉(つちのととり)、天晴、
  今日、五つ時分(8時頃)、桑名を立ち、舟に乗り、
  八つ時分(14時頃)に、尾張国津島(五里余り)へ付き候ひおわんぬ、

  則ち、飛鳥井より織田三郎方へ、速水兵部を遣はされ候、
  軈(やが)て、織田大膳、使ひに来たり、

 信秀は、勝幡城を居城としていた(愛知県安西市~稲沢市)。
 言継を歓待した。

  七つ過ぎ時分(16時頃)、同三郎、迎いとて、来たる、
  則ち、彼の館(在所名勝幡)へ罷りむかひ、馬に乗る、
  三郎、乗らず、跡に来候ひおわんぬ、

 信秀は、経済力を背景に勢力を拡大した。
 言継は、城の規模・出来栄えに驚いた。

  夜半時分、冷麺・すい物等にて一盞(いっさん=飲食)候おわんぬ、
  飛鳥より、馬・太刀遣はされおわんぬ、
  則ち、城の内、新造に移り候ひおわんぬ、
  未だ、移徒(わたまし=移転)せざるの所なり、
  驚目候ひおわんぬ、
                          (「言継卿記」)
 

織田氏のルーツは、越前にあった。

 織田氏発祥の地は、越前織田荘である(福井県丹生郡越前町織田)。
 同地には、「織田劔神社」が鎮座している(「織田明神」とも)。
 織田氏の氏神である。
 同氏は、神官の末裔とされる。 
 信長は、この神社に対して、尊崇の念をもって、きわめて大切に、
 かつ丁重に接している。
 
 織田氏は、元々、越前の守護、斯波氏の守護代だった。
 斯波氏が尾張の守護を兼任することになったことにより、
 守護代として、尾張に移住した。 

 信長の織田氏は、その支流である。
 代々、守護代家に仕え、奉行を務めた。
 したがって、斯波氏の陪臣にすぎない。
 すなわち、守護の家臣の、そのまた家臣。
 祖父信定・父信秀・信長と、「弾正忠」を名乗った。

          ⇒ 次回へつづく


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