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本能寺の変1582 【重史115】 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

【重史115】 「言継卿記」 

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→【シリーズ】
 信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 本能寺への道  
その一因 目次大 概説大 目次中 →
 1時代の風潮 2光秀という男 3光秀と光慶 
 4光秀の苦悩 5志向の相違  +信長の油断 →
 3 (1)光秀の素性 (2)光秀の年齢 (3)光秀の嫡男 
見えてきたもの 目次大 目次中 +240607 
【人物】 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済
 そ=その一因 テ=テーマ別 
*加筆修正 

【重史115】 そ第11話㉟

勢州に於て、千石知行、

                     「言継卿記」

 永禄十二年1569、七月六日。

 朝山日乗が、京にもどった。
 七月六日
 山科言継が、日乗を訪ねた。

  六日、戊寅(つちのえとら)、天晴、
  辰の刻(8時頃)、日乗上人、濃州より上洛、
  木屋へ罷り向かふ、 

 信長は、日乗に知行を与えた。
 伊勢の内にて、千石を扶持す。
 これすなわち、家臣。
 信長は、日乗の立場を明らかにした。

  勢州に於て、千石知行、
  馬鞍・轡・天目ようへん・刀・同脇差、各のしつけ、
  織田弾正忠信長、これを出すと云々、
                           (「言継卿記」)

 信長は、光秀にも知行を与えていた。
 光秀は、京都奉行に「抜擢」された。
 となれば、当然、それに伴う経済的な裏付け等があったものと思う。

 光秀は、義昭の家臣であり、かつ、信長の家臣でもあった。
 すなわち、両仕え。

 【引用】 そ第11話㉟ 



 ⇒ 次へつづく

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