本能寺の変 1582 信長の甲斐侵攻 5 236 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の甲斐侵攻 5 潮目の変化
信長は、伊那谷を北上した。
三月十七日。
飯田を出発。
天竜川に沿って北上。
飯島に到着。
移動距離、凡そ八里(24km)。
三月十七日、信長公、飯田より大島を御通りなされ、
飯島に至りて御陣取り。
(『信長公記』)
信長は、松井友閑へ戦勝を伝えた(①~⑪)。
同日。
信長は、友閑へ以下の黒印状を送った。
友閑は、堺の代官である。
①穴山梅雪は、内通していた。
梅雪(信君=のぶただ)は、すでに、妻子を甲府から下山舘(山梨県南巨摩郡
身延町下山)に避難させていた。
此の表のこと、最前、穴山、忠節を抽んずべきの条、朱印をなし、
信長、信州に至って出馬の刻(きざみ)、色を立つべきの由、
路次・日限を相計り、堅く申し聞かすところ、
早々、風聞せしめ、穴山足弱(あしよわ=女・子供・ろうじん)等、
甲斐府中より、彼等が館へ引き越し候ひき、
②勝頼の首。
小山田信茂の裏切り。
四郎、諏訪に居陣せしめ候間、則ち、甲州の構へ引き退き候、
其外、彼の国の者ども、我も々々と忠節すべきの覚悟に付きて、
右の構にも相堪えず、山中へ北(にげ)隠れ候を、
小山田以下心を合せ、
滝川左近人数をも、去る十一日四郎父子を討ち捕り、首到来候、
③典厩信豊の首。
下曽根浄喜の裏切り。
典厩の事、西上野近辺の小諸城に楯籠り候、
是も出羽守忠節として、切り首到来、其首を飯田城に懸け置き候間、
飛脚見候て物語るべく候、
④仁科信盛の首。
奮戦すれども、虚し。
四郎の弟仁科五郎も高遠城相抱え候を打ち果し、是も首到来候、
⑤歴々の者ども。
信長は、その多くを殺害した。
甲州の歴々の者ども、大略首を刎ね候、
又、降人に出で候族(やから)、数知らず候、
是は、生害させ候者、数多く候、
自然、助け置く輩(ともがら)も之れあるべし、
⑥土岐頼芸他。
かつて、敵対した者たち。
武田氏が庇護していた。
土岐頼芸・織田信賢・織田信安。
これは、追放。
佐々木承禎の子次郎(不明)・若狭の武田五郎(不明)。
これは、切腹。
亦(また)、尾濃の浪人、土岐美濃守を始め、岩倉・犬山等、
小屋に蟄居候、
是は、それ々々に、相計(はから)い候、
佐々木承禎の子次郎并(ならび)に若狭の武田五郎、
是も小屋に蟄居候を、搦め取り、腹を切らせ候、
(「武家事紀」「織田信長文書の研究」①~⑥/⑪)
⇒ 次回へつづく
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