
本能寺の変 1582 信長の台頭 2 246 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 2 尾張統一
三好は、全盛期を迎えていた。
長慶は、摂津を本拠に、その版図を拡大した。
山城・丹波・和泉・阿波・淡路・讃岐・播磨の一部。
これが、この頃の勢力範囲。
そして今、将軍義輝を掌(たなごころ)の中に置いた。
正に、「我が世の春」。
その、始まりである。
三好義興は、長慶の後継者。
長慶の嫡男。
幼名、孫次郎。
天文十一年(1542)の生れ。
永禄三年(1560)、家督を継ぐ。
永禄六年(1563)、病死。
長慶は、有力な弟たちに支えられていた。
三好義賢(実休)
三好元長(長慶の父)の二男。
すぐ下の弟である。
阿波の三好氏、当主。
子に、三好長治・十河存保がいる。
大永六~七年(1526~27)の生れ。
天文二十二年(1553)、阿波の守護、細川持隆を討つ。
【参照】三好義賢の下剋上。189
茶の湯に通じていた。
永禄五年(1562)、討死。
安宅冬康
三好元長の三男。
生年不詳。
幼くして、安宅氏の養子となる。
淡路島水軍を率いた。
永禄七年(1564)、長慶に殺害される。
子に、神太郎がいる。
十河一存
三好元長の四男。
生年不詳。
讃岐の国人、十河氏を継ぐ。
後、和泉守護代松浦氏の後見人として岸和田城に入る。
子に、三好義継・松浦万満(まんみつ)がいる。
永禄四年(1561)、病死。
なお、義継は、長慶に引き取られ、義興の死後、三好宗家を引き継ぐ
ことになる。
また、十河氏は、存保(三好実休の子)が継ぐ。
ややこしい。
以上、三好義興・三好実休・安宅冬康・十河一存、四人の没年に注目。
⇒ 次回へつづく