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本能寺の変 1582 上総介信長 6 213 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 6 道三の最期
義龍は、弟たちを言葉巧みに誘い出した。
弘治元年(1555) *十月二十三日改元。
十一月二十二日。
決行の日。
道三が山を下った。
霜月廿二日、山城道三、山下の私宅へ下りられ侯。
義龍は、弟たちを呼び寄せた。
爰にて、伯父の長井隼人正を使にて、弟二人のかたへ申し遣はす趣、
既に、急病、時を期する事に侯。
対面候て一言申し度き事侯。
入来侯へかし、と申し送り侯。
長井隼人正、巧みを廻し、異見申すところに、
同心にて、
則ち、二人の弟ども、新九郎所へ罷り来るなり。
義龍は、弟たちを殺害した。
戦国時代である。
これが、当時の風潮だった。
正に、悪魔の所業。
恐ろしい、時代だった。
長井隼人正、次の間に刀を置く。
是れを見て、兄弟の者も同じ如く、次の間に刀をを(置)く。
奥の間へ入るなり。
態(わざ)と盃をと侯て、振舞を出だし、
日根野備中、名誉の物切れのふと(太)刀、作手棒兼常を抜き持ち、
上座に侯ひつる孫四郎を切り臥せ、
又、右兵大輔を切り殺し、
年来の愁眉を開き、
道三は、驚いた。
長男に裏切られ、二男・三男を殺された。
「生き地獄」
これ以上の責苦はない。
則ち、山下にこれある山城道三かたへ、右の趣申し遣はすところ、
仰天致し、肝を消すこと限り無し。
道三は、山県へ退いた。
落ち行く先は、大桑城。
己が殺害した土岐頼純の城。
爰(ここ)にて、螺(ほら)を立て、人数を寄せ、四方町末より火をかけ、
悉く放火し、井口を生(はだ)か城になし、
奈賀良の川(長良川)を越え、山県と云ふ山中へ引き退き、
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく