本能寺の変 1582 光秀と信長 2 63 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と信長 2 美濃立政寺
石高は、優に百万石を超えていた。
この頃は、まだ検地の前。
確かな数字は、わからない。
以下は、「当代記」の拠るものである。
したがって、もう少し後の時代のもの。
しかし、それ程、差はないと思われる。
参考にされたい。
信長の領国
美濃国 五十四万石
尾張国 五十七万石
計 百十一万石
そして、さらに伊勢国(五十六万石)に手を伸ばさんとしていた。
武田信玄・上杉謙信・朝倉義景との比較。
信玄の領国
甲斐国 二十二万石
信濃国 四十万石
西上野国 二十五万石(上野四十九万の約半分として)
計 八十七万石
謙信の領国
越後国 三十九万石
朝倉義景の領国
越前国 四十九万石
以上が彼らの経済力である。
信長は、さらに、その上を行った。
そして、足利義昭を手に入れた。
義昭は、掌中にある。
これが、その時の現実である。
信長は、一歩、二歩、先行していた。
信長は、「天下」に王手を懸けた。
信長は、都を目指した。
義昭に供奉。
「天下布武」
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