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本能寺の変 1582 光秀という男 7 119 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 7 美濃の争乱 

1517年、永正十四年の美濃。

 応仁の乱から、50年後の世界。
 戦国時代は、いよいよ、中盤に突入する。

守護代斎藤利良は、嫡男頼武を守護に据えようとしていた。

守護土岐政房は、二男頼芸に跡目を継がせようと考えていた。

 そうなれば、嫡男頼武は廃嫡される。
 利良の心中、穏やかならず。
 失脚の怖れがあった。

長井氏は、頼芸を支持した。

 長弘は、守護代の座を狙った。
 その傍らには、新左衛門がいる

長井新左衛門には、野心があった。

 またとない好機である。
 「心はしをも仕り候て」
 心馳せ=気配り・心配り→気持ちを掴んで・取り入って。
 
「春日文書」を見れば、そうなる。

 若き道三は、父にしたがっていた。

美濃は、頼武派と頼芸派に二分された。

 戦乱の様相が、色濃くなってきた。
  土岐頼武、斎藤利良 ✖ 土岐政房・頼芸、長井長弘・新左衛門

十二月、戦いが勃発した。

 ついに、合戦となった。
 
  去年十二月、美濃の国に於いて、
  守護土岐(政房)と同被官斎藤新四郎(利良)合戦、
  土岐負け、大破に及ぶの間、
                (「宣胤卿記」永正十五年一月五日条)
  

美濃は、内乱状態に陥った。

 家督継承。
 守護の座をめぐる争い。
 さらには、守護代への野望。
 欲望渦巻き、骨肉相食む、血みどろの戦いが始まった。

初戦は、頼武方が勝った。

 しかし、戦いは終わらない。
 まだまだ、つづく。

光秀の明智氏は、頼武方に与した。

 後年の、光秀と越前との関係を考慮すれば、そうなるのではないか。
 となれば、新左衛門・若き道三とは敵対関係にあった。
 
 なお、当時の明智氏は、光秀の父の代であろう。
 また、光秀の存否については、わからない。 

 これにらついては、後述する。


          ⇒ 次回へつづく


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