本能寺の変 1582 光秀の苦悩 3 19 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀の苦悩 3 信長の猜疑心
しかし、信長は、猜疑心が強かった。
否、強すぎた。
それ故、ここまで、生き抜くことが出来た。
時は、戦国時代。
「油断」は、「死」を意味した。
織田信勝の一件。
信勝は、信長のすぐ下の弟。
母は、同じく土田氏。
生年不詳。
末盛城を居城とした。
信澄の父である。
信澄は、光秀の娘婿。
父の顔を知らず。
前にも、同じことがあった。
その時は、赦した。
これについては、後述する。
信長は、警戒していた。
弟ですら、信じられぬ時代だった。
「再び」
信長は、そう、思っていた。
疑わねば、命を失う世の中だった。
死神は、ある日、突然、訪れる。
不幸にも、その通りになった。
永禄元年(1558)。
事件は、起きた。
信勝は、岩倉織田氏と通じていた。
その背後には、美濃の斎藤義龍がいた。
義龍は、信勝の心底を知り尽くしていた。
一、上総介殿信長公の御舎弟勘十郎殿、龍泉寺を城に御拵(こしら)へ
なされ侯。
上郡岩倉の織田伊勢守(織田信賢)と仰せ合はせられ、
信長の御台所入り(蔵入地である)篠木三郷、能き知行にて侯。
是れを押領侯はんとの、御巧みにて侯。
*龍泉寺 愛知県名古屋市守山区竜泉寺1丁目
*篠木 愛知県春日井市篠木町
信勝、謀叛。
二度目である。
柴田勝家は、信勝の家臣。
主君を裏切った。
これを、信長へ報せた。
勘十郎殿御若衆に、津々木蔵人とてこれあり。
御家中の覚えの侍どもは皆、津々木に付けられ候。
勝ちに乗りて奢り、柴田権六を蔑如(べつじょ)に持て扱ひ候。
柴田、無念に存じ、上総介殿へ、又、御謀叛おぼしめし立つの由、
申し上げられ候。
信長は、病を装った。
苦悩の末の決断だった。
是れより、信長、作病(つくりやまい)を御構へにて、一切面へ御出で
なし。
信勝は、油断した。
同十一月二日。
まだ、気づいていない。
兄の見舞いに訪れた。
御兄弟の儀に侯間、勘十郎殿御見舞然るべしと、御袋様並びに柴田権六
異見申すに付きて、
清洲へ御見舞に御出で、清洲北矢蔵天主次の間にて、
信長は、信勝を殺害した。
弘治四年戊午(つちのえうま)霜月二日、
河尻・青貝に仰せ付けられ、御生害なされ侯。
(『信長公記』)
*弘治は、2月28日、永禄と改元された。
⇒ 次回へつづく
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