本能寺の変 1582 光秀という男 1 93 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 1 『日本史』
光秀は、歴とした戦国武将だった。
フロイスは、イエズス会の庇護者信長には、同情的であるが、
謀叛人光秀には、きわめて、辛辣な筆致で記録を残している。
そのことを考慮して、目を通していただきたい。
彼は裏切りや密会を好み、刑を科するに残酷で、独裁的でもあったが、
己を偽装するのに抜け目がなく、
戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、
計略と策謀の達人であった。
光秀は、信長の同類だった。
「同じ穴の狢(ムジナ)」
信長と、似たようなタイプの人物だった。
「打てば響く」、相手。
信長は、重宝した。
光秀は、築城に秀でていた。
勉強家・努力家だった。
築城術を身につけていた。
また、築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、
選り抜かれた戦いに熟練の士を使いこなしていた。
(『日本史』)
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