本能寺の変 1582 光秀と信長 1 57~58 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀と信長 1 邂逅
*57~58は、バックナンバーです。
57 永禄十一年(1568)、春。
光秀は、細川藤孝に仕えていた。
フロイスの証言。 『日本史』
光秀は、優れた能力の持主だった。 『日本史』
光秀は、細川藤孝の「中間」だった。
多聞院英俊の証言。 「多聞院日記」
58 雪解けとともに、交渉が再開された。
幾度も、使者が往来した。
そして、交渉成立。
義昭は、上杉謙信へ上洛を伝えた。 「上杉家文書」
⇒ 次回へつづく
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