本能寺の変 1582 光秀という男 6 118 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
光秀という男 6 1500年代
美濃は、戦国時代の真っ只中にあった。
下剋上が罷り通る時代である。
権力の主体は、守護から守護代へ。
さらに下って、小守護代へ。
そして、さらに下る。
土岐政房は、後継者の問題を抱えていた。
嫡男頼武と二男頼芸。
守護代は、斎藤利良。
利良(としなが)は、持是院家の当主。
妙純の直孫にあたる。
斎藤氏は、かつての勢いを失っていた。
妙純は、戦死した。
小守護代は、長井長弘。
長井氏は、斎藤氏の宿老。
この間隙を縫って、勢力を拡大した。
この頃は、すでに、主家に拮抗する力を有していた。
長井新左衛門がこれを補佐していた(道三の父)。
この新左衛門が道三の父である。
元々は、京都妙覚寺の僧侶だった。
旧姓、西村。
長井氏に仕え、引き立てられ、その姓を拝領した。
長井氏のナンバー2である。
六角承禎が家臣に宛てた書状に、その事実を示す記載がある。
一、彼の斎治(斎藤治部大輔義龍)身上の儀、
祖父新左衛門慰は、京都妙覚寺法花坊主落ちにて、西村と申し、
長井弥二郎(長弘)の所へ罷り出で、
濃州錯乱の砌(みぎり)、心はしをも仕り候て、次第にひいて候て、
長井同名になり、
(「春日文書」永禄三年七月二十一日付六角承禎条書第三条1/2)
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