本能寺の変 上総介信長 1 177~183 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 1 信秀の死
*177~183は、バックナンバーです。
177 織田信秀、没。 『信長公記』
信長、この時十九歳。
本能寺の変の、ちょうど30年前のこと。
178 葬儀は、万松寺で執り行われた。 『信長公記』
信長は、仏前へ抹香を投げつけた。 『信長公記』
179 信長は、弟信勝に末盛城を与えた。 『信長公記』
信長の織田氏は、求心力を失った。
鳴海の山口教継、謀叛。 『信長公記』
背後に、今川義元あり。 『信長公記』
180 赤塚の合戦 。 『信長公記』
信長の、最初の合戦である。 『信長公記』
181 初めての合戦は、引き分けに終わった。 『信長公記』
信長は、この戦いから、多くのことを学んだ。 『信長公記』
「鉄炮」について、記述なし。
182 清洲織田氏、離反。 『信長公記』
信長は、那古野から萱津へ向かった。 『信長公記』
183 萱津の合戦。 『信長公記』
信長の、二度目の合戦である。 『信長公記』
信長は、この戦いに勝った。 『信長公記』
信長は、一目置かれる存在になった。 『信長公記』
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