本能寺の変 1582 信長の台頭 7 292 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
信長の台頭 7 斎藤義龍の死
軽海の合戦。
戦場が軽海(岐阜県本巣市軽海)へ移った。
此の競(きお)ひに、御敵、北かるみ(軽海)までとり出だし、
西向きに備へ侯。
信長、懸けまはし御覧じ、
西かるみ村へ御移り侯て、古宮の前に東向にさし向ひ、
御人数備へられ、足軽懸け引き侯て、
既に、夜に入り、
御敵、真木村牛介、先(せん)を仕り、かゝり来たり侯を追ひ立て、
稲葉又右衛門を、池田勝三郎・佐々内蔵佐、両人として、
あひ討ちに討ちとるなり。
両軍、引き分け。
結局、この戦いは勝負がつかず。
五分と五分。
引き分けに終わった。
互いに、陣を引く。
夜合戦に罷り成り、
片々は、つき負け、迯(逃)げ去る者もあり。
又、一方は、つき立て、かゝる者もあり。
敵陣、夜の間に引き取り侯なり。
信長は、夜の明くるまで御居陣なり。
信長は、帰城した。
五月二十四日。
信長は、墨俣に戻り、その後、清州へ。
廿四日朝、洲股へ御帰城なり。
洲股、御引払ひなさる。
(『信長公記』)
⇒ 次回へつづく