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本能寺の変 1582 光秀という男 1 95 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀という男 1 『日本史』 

光秀は、兵法に精通していた。

 光秀は、勤勉家。
 努力の人だった。
 話が合うのだろう。
 信長が重用した一因でもあった。

  また、友人たちの間にあっては、彼は人を欺くために七十二の方法を
  深く体得し、かつ学習したと吹聴していたが、

光秀は、信長の統一事業に大いなる成果を上げた。

 フロイスは、光秀を敵対視している。
 そのことを割引いて解釈すべきである。

  ついには、このような術策と表面だけの繕いにより、
  あまり謀略(という手段を弄すること)に精通していない信長を
  完全に瞞着し、惑わしてしまい、

信長は、褒美として、志賀一郡・丹波一国を与えた。

 これについては、後述する。

  信長は彼を丹波、丹後二ヵ国の国主に取り立て、
  信長がすでに破壊した比叡山の大学(延暦寺)の全収入
  ━━━それは(別の)国の半ば以上の収入に相当した━━━
  とともに彼に与えるに至った。
                           (『日本史』)


          ⇒ 次回へつづく 

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