本能寺の変 1582 上総介信長 1 180 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
上総介信長 1 信秀の死
赤塚の合戦 。
信長の軍勢は、「八百計り」。
これがスタートラインである。
出陣。
か様に侯ところ、
四月十七日、
一、織田上総介信長公、十九の御年、人数八百計りにて御発足、
中根村をかけ通り、小鳴海へ移られ、
三の山へ御あがり侯のところ、
対する山口勢は、千五百。
ほぼ倍の兵数。
決戦の場は、鳴海の北、「赤塚の郷」(愛知県名古屋市緑区鳴海町赤塚)。
一、御敵山口九郎二郎は、廿の年。
三の山の十五町東、なるみより北、赤塚の郷へは、
なるみより十五、六町あり。
九郎二郎、人数千五百計りにて、赤塚へかけ出で侯。
先手あし軽、
清水又十郎・柘植宗十郎・中村与八郎・萩原助十郎・成田弥六・
成田助四郎・芝山甚太郎・中島又二郎・祖父江久介・横江孫八・
あら川又蔵、是れらを先として、赤塚へ移り侯。
信長の、最初の合戦である。
信長にとっては、家督を継いで初めての戦い。
負けるわけにはいかない。
一、上総介信長、三の山より、此のよしを御覧じ、
則ち、あか塚へ御人数よせられ侯。
御さき手あしがる衆、
あら川与十郎・あら川喜右衛門・蜂屋般若介・長谷川挨介・
内藤勝介・青山藤六・戸田宗二郎・賀藤助丞。
戦いは、巳の刻(午前10時頃)から始まった。
敵あひ(=敵との間合いが)五間、六けん隔て侯時、
究竟の射手共、互いに矢をはなつところ、
あら川与十郎、見上げ(眉庇まびさし)の下を、
箆(の)ぶかに(=深々と)射られて、
落馬したるところを、かかり来つて、
敵がたへ、
すね(脛)を取りて引くもあり、のし付のつかのかたを引くもあり、
又、こなたより、
かしらと筒躰(どうたい=胴体)引き合ふ。
其の時、与十郎さしたるのし付、長さ一間、ひろ(広)さは五、六寸
侯ひつる由なり。
さやのかたをこなたへ引き、
終に、のし付・頸・筒躰、共に引き勝つなり。
(『信長公記』)
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