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本能寺の変 1582 上総介信長 2 187 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

上総介信長 2 富田聖徳寺 

たわけを態と御作り侯よ。

 信長の容姿は、一変した。
 いよいよ、二人の戦いのクライマックスである。  

  (信長は)寄宿の寺へ御着きにて、屏風を引き廻し、
  一、御ぐし(髪)、折り曲に、
    一世の始めに(生まれて初めて)、ゆ(結)わせられ、
  一、何(いつ)染め置かれ侯、知り人なき、かちん(=褐色)の長袴を
    めし、
  一、ちいさ刀、是れも人に知らせず拵(こしら)えをかせられ侯を、
    さゝせられ、
    御出立を、(信長の)御家中の衆、見申し侯て、
    さては、此の比、たわけを態(わざ)と御作り侯よと、
    肝を消し、各次第々々に斟酌仕り侯なり。
 
  御堂へ、する々々と、御出でありて、
  縁を御上り侯のところに、春日丹後・堀田道空、さし向ひ、
  はやく御出でなされ候へと、申し候へども、知らぬ顔にて、
  諸侍、居ながれたる前を、する々々、御通り侯て、
  縁の柱にもたれて御座侯。

道三、登場。

  暫く侯て、屏風を推しのけて、道三、出でられ侯。

であるか。

 緊迫のうちに、会見が始まった。

  又、是れも知らぬかほ(顔)にて御座侯を、
  堀田道空さしより、是れぞ山城殿にて御座侯と、申す時、
  であるかと、
  仰せられ侯て、敷居より内へ御入り侯て、
  道三に御礼ありて、其のまゝ御座敷に御直り侯ひしなり。

程なく、会見は終わった。

 互いに、「盃」を交わす。
 祝着。
 滞ることなく、無事終了。
 
  さて、道空、御湯付(湯漬け)を上げ申し侯。
  互に、御盃参り、道三に御対面、残る所なき御仕合なり。
                         (『信長公記』)
 

          ⇒ 次回へつづく

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