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本能寺の変 1582 光秀と信長 3 71 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

光秀と信長 3 上洛 

義昭は、天神馬場へ進んだ。

 先勢は、すでに、攻撃に取り懸かっていた。

  廿九日、乙亥(きのとい)、天晴、
  今日、武家御所、天神の馬場まで御進発と云々、
  先勢、芥川麓を焼き、責むと云々、
  其の外、河州方々放火と云々、

                          (「言継卿記」)

芥川山城が落ちた。

 大軍勢を目の前にして、戦意を喪失したのだろう。
 城兵は、暗闇に紛れて退散した。
 越水城(西宮)・滝山城(神戸)も、これにつづいた。
 
  芥川に細川六郎殿・三好日向守楯籠り、夜に入り退散。
  幷(ならび)に、篠原右京亮(長房)居城、越水・滝山、是れ又退城。                         

信長は、義昭を奉じて芥川山城に入った。

 信長は、三好長慶を強く意識していた。
 上洛を決意して以来の、念願だった。
 これを、打ち消した。

  然る間、芥川の城へ信長供奉なされ、公方様御座を移さる。
                          (『信長公記』)
 

山科言継は、これらを克明に記録していた。

 信長は、池田城へ取り懸かった。

  卅日、丙子(ひのえね)、天晴、亥の刻(22時頃)より雨降る、
  今日、武家、芥川へ御座を移さるゝと云々、

  勝隆寺・芥川等の城、昨夕これを渡し、
  郡山道場、今日これを破る、
  富田、寺外これを破り、寺内調(ととの)いこれ有り、
  池田へ取り懸けと云々、
                          (「言継卿記」)


          ⇒ 次回へつづく 

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